昨年末、伊丹公子が亡くなった。亡くなる二年ほど前に刊行された大部の『伊丹公子全句集』(沖積舎、二〇一二)を繙きつつ、あらためて伊丹の足跡を遠望しながら、今更ながら僕は、『青玄』の作家たちの試みたことはいったい何だったのかと思うのである。
高柳重信は自らが編集長を務めた『俳句研究』において「伊丹三樹彦研究」と題する特集を行った際、その編集後記に次のように記している。
現在の伊丹は、その分かち書きの表記に執着をつづけるため、俳壇から異端視されると確信しているように見えるが、若き日の彼は、また別な印象を持っていた。(略)
*思えば、敗戦直後の俳壇において、編集子が最初に書いた文章は、この伊丹三樹彦への公開書簡であった。その文章の詳しい内容は忘れてしまったが、敗戦によって急変した社会状況を見すえながら、もはや、この不自由きわまる禁欲的な俳句形式に新しく関わりを持とうとするものは皆無となるにちがいないという思いに、それは立脚していた。すでに俳句に汚染した者たちは、なお惰性的に関わりを持ちつづけるであろうが、それらの俳人たちが次々に老いて死んでいったとき、いま最年少のゆえをもって、伊丹と編集子が最後の俳人として二人だけが取り残される日が予想されると、そういうことを書いたと思う。もちろん、これには意識された誇張が見られるが、ともに年少のときに俳句形式と遭遇したものとしての親近感も如実に現れている。
(「編集後記」『俳句研究』一九八一・二)
高柳自身も「これには意識された誇張が見られるが」という通り、この言葉をそのまま受け取るわけにはいくまいが、しかしながら、かつてただその若いということのみをもって俳句史の掉尾を飾る存在となるはずであった二人の、一人は多行形式へ、もう一人は分かち書きへと向かった道行を思うとき、いまや論ずることさえほとんどなくなったこの二つの方法論が、実は方法「論」などというにはあまりにナイーブな出自を持つものであったことに気づかされるのである。
三樹彦が草城の後継者として『青玄』を率いていくことを『青玄』誌上において明言したのは一九五六年一一月のことであったが、その後三樹彦の主唱する三リ主義(リゴリズム、リアリズム、リリシズム)へと舵を切った『青玄』は次のようなアンケートを行っている(『青玄』一九六〇・二)。
①青玄の三課題について
(イ)青玄は定型を守る(ロ)青玄は季語を超える(ハ)青玄は現代語を導入する
②その他青玄全般について
これに対して高柳はこう答えている。
①三課題とも僕には何の異存もありません。それは「青玄」だけの課題ではなく、今日の大部分の俳人の課題だろうと思います。問題は、だから「如何にして」それをするかという一事にかかるのみです、そしてこの「如何にして」という事にかかわつてくると、僕には現在の「青玄」にかなりの異存があります。現に「青玄」の諸作品と僕の作品との間には、ずいぶん大きな隔たりがありますが、僕を強く支持してやみません。
この頃、三樹彦も高柳もすでに青年とは言いがたい年齢を迎えていた。「青玄の三課題」が「今日の大部分の俳人の課題」となりえた一九六〇年代はいまとなっては懐かしいものだが、それにしても高柳が「僕を強く支持してやみません」と書くとき、その言葉はいかなる年月を畳み込んで発せられたものであったろう。伊丹公子の第一句集『メキシコ貝』(琅玕洞、一九六五)の上梓があったのはその数年後のことである。それは草城没後の『青玄』の試行が―多数の同調と訣別とを経験しながら―生んだ一つの具体的な成果であった。
思想までレースで編んで 夏至の女
山へ 山へ 葬列黒い紙片のよう
風はフルート 砂丘で髪が絶望して
たゆとう冬 甘らっきょうが母子に浮く
父祖は土葬に 風の速さが夏のしるし
冬の豹へ息凝る少年の かるい孤独
星がおもたい 岬の葉ずれで眠る夜は
マンボウ棲む沖見え 少年に暗い畳
反対 反対 デモ過ぎ 森に真珠いろの陽が
桜の波へ カタコト溺れる 乳母車
句集上梓に先立つこと五年前、公子は青玄賞を受賞し『青玄』の代表作家の一人となっていた。『メキシコ貝』に収録されているのはすべて分かち書きによる俳句である。つまり公子はそれ以前の分かち書きを用いずに書かれた俳句をすべて棄てたのである。しかしながら、いま分かち書きの使用に積極的に賛同する者があまりいないように見えるのは―もっとも、先の高柳の言葉にあるように、三十年以前にすでに「異端視」されていたようであるが―どういうわけだろう。今日分かち書きが全く試みられていないわけではない。実際、単発的に分かち書きによる俳句を書く者はいまでも決して皆無ではないのである。ただ、分かち書きの俳句を書くということと、分かち書きに執着するということは決定的に違う。分かち書きへの執着が「異端視」されるのはそれゆえであろう。
だがその出立において分かち書きでない俳句を切り捨て、むしろ分かち書きで書き続けることで伊丹公子が「伊丹公子」であったとすれば、「伊丹公子」の足跡を逆に辿るしかない僕たちが彼岸へと問うべきは―あるいは彼岸から問われていることとは―分かち書き俳句を書くとはどういうことか、ということではなく、むしろ分かち書き俳句に執着するとはどういうことか、ということであろう。
分かち書きの導入についての議論の魁は『青玄』(一九五九・九)に掲載された三樹彦の「青玄後記」である。ここで三樹彦は次のように述べている。
現代の俳句は、現代の読者を対象としなくては発表の意義も価値もない。ならば、その表現媒体としての現代語を自覚し、かつ導入することこそ緊急の課題である。そう信じて現代語俳句の実践に踏切りかな使いもまた新かなを採用するに至つた(原文「かな」に傍点)。(略)ただ〈や・かな〉といつた代表的切字との訣別もあり、名詞を切字に用いる場合が多くなつた。ために先号の〈磨滅した空抽斗に夕焼溜め 章夫〉(原文「空抽斗」に傍点)のような句では傍点箇所を〈空〉と読むか〈空抽斗〉と読むか、で苦しみもする。作者は〈空〉の意であつた。それなら〈空〉と〈抽斗〉の間を一字分空ければいいではないか。元来、俳句の組方には、鉄則などない筈だから、読者への伝達を正確にするため一行書式に、縦の分かち書きを施せばいい―という次第だ。
つまり『青玄』の分かち書きは、そもそも、新かなの導入に併せて切字と訣別したことにより一句がどこで切れるかが読み手に伝わりにくくなってしまっため、「読者への伝達を正確にするため」に提案されたものであった。先の「青玄の三課題」についてのアンケートでも「青玄は現代語を導入する」ということが「三課題」の一つとして挙げられていたが、分かち書きの試行はこの現代語の導入と密接に関係するものだったのである。
『青玄』におけるこの分かち書きの試行についてのまとまった論考として最も早いものは「俳句の新表記 ワカチガキ運動横断」(大中青塔子・登村光美・伊藤章作、『青玄』一九六一・一〇)である。それによれば「青玄誌上でワカチガキ表現が試みられ始めてから半年後、それに同調した作家は先にも書いたように、太虚集(同人の投句欄―外山注)四〇%、微風集(一般会員の投句欄―外山注)一五%であつたが、さらに一年以上経過した一三五号では、太虚集で八〇%、微風集の上位作家一〇〇名に限れば六〇%と激増している」という状況にあった。大中らの論考は『青玄』におけるこうした分かち書きの隆盛を受けて書かれたものであったが、彼らは執筆にあたり「現在誌上で活躍されている同人六〇氏」に対し「①ワカチガキを採用されるに至つた動機」「②実作の過程で感じられたワカチガキの効用」「③ワカチガキを実践されない場合はその理由」の三項目からなるアンケートを行っている。回答があったのは四〇名ほどであったというが、この問いに対し伊丹公子は次のように答えている。
伊丹公子―内容を正確に伝える表記法は作品愛に通ずる。ワカチガキは現代人の複雑な心理を現代生き言葉によって表白する方法として有効であること。従つてワカチガキ表記法は最も自然で、正確で、合理的な美しさをもつものである。
公子は『青玄』同人のなかでも最も早い時期に分かち書きを使用しはじめた作家の一人であったが(内山草子「俳句のワカチガキの実践的効用について」『青玄』一九六三・九)、その公子の初期の分かち書き観を示す言葉として貴重なものであろう。ここで公子は「ワカチガキは現代人の複雑な心理を現代生き言葉によって表白する方法として有効である」としており、分かち書きが「現代生き言葉」の導入と結びつけて思考されていたことがうかがえる。公子はまた同時期に書かれた次の文章でも次のようにいう。
最近私が現代語で俳句をつくる様になりましたのは、「自分は文語を使いたいのだが後続世代にうけつがれるために……」というのではなくて、「つくらずにはいられない俳句だからこそ自分の言葉である現代語で……」という以外にありません。
(「自分自身の俳句を」『青玄』一九六一・一)
こんなふうにまっすぐに「自分の言葉である現代語」と言い切れた時代があったのである。先の堀下翔の時評にあった言いかたを真似るなら、さしずめ「かつて現代語は正直であった」ということになろうか。だが注意すべきは、現代語で書くという選択が結局のところ合理的なものではありえなかったということだ。二十年以上が経ってからの公子の発言はそのことを示唆するものであろう。
俳句は現代語でつくっています。所属誌「青玄」の伊丹三樹彦の主唱によってですが、それと、現代語が好きだからです。
(「俳句の家」『アサヒグラフ』一九八六・七)
公子はここで、現代語で書く理由として「現代語が好きだから」と言い添えている。だから、「かつて現代語は正直であった」というのは正確な言いかたではない。現代語で書くという行為がこうした非合理的な性質をはらむものであるならば、「現代語は正直であった」などというのは、ささやかで切実な祈りの謂でこそあれ、それ以上のものではありえない。だからこのように言いかえるべきだろう―すなわち、「伊丹公子」にとって「現代語は正直でなければならなかった」。
三味線草 彼方で象は鼻上げる
鳶が来た 鳶には未知の街だろう
歳晩の絶景 白鳥 鷺 鴨 鳶
晩年の句集『博物の朝』(角川書店、二〇一〇)から引いた。公子は『メキシコ貝』以後生涯にわたってほとんど一貫して現代語使用と分かち書きとを続けていた。だがそこに何の衒いもなかったようにみえるのはなぜだろう。
かつて第三句集『沿海』(沖積舎、一九七七)の解説を執筆した坪内稔典は、公子の作品がすでに第二句集『陶器天使』(牧羊社、一九七五)において「比喩の張り」を失い「口語がその本質として持つ伝達性が大幅に顔を出している」と指摘していたが、同じ文章で次のようにも述べていた。
伊丹における比喩の後退、私たちはそこに、戦後の俳句が直面している困難を指摘できる。(略)
考えてみれば、桑原武夫らの俳句否定論に見舞われて出発した戦後の俳句は、根源俳句といい、社会性俳句、前衛俳句といい、折々の対象はちがっても、一貫して俳句の存在理由を証す試みだった。個々の俳人が持つ俳句への執着を、戦後日本の現実においてあきらかにしようとしたのである。その試みの高潮期は『メキシコ貝』の作品が書かれた時期であった。(略)しかし、一九六〇年代のそうした試みは、七〇年代に入って新鮮な問題の提起力を失っている。急速な言葉の無力化に対応できず、俳諧への先祖返りが顕著になっているのだ。
正直に言えば、いまの僕にはここに刻まれた坪内の問題意識がいかにも七〇年代らしいものに見える。「急速な言葉の無力化に対応できず、俳諧への先祖返りが顕著になっている」などという危機感を口にすることなど、むしろ気恥ずかしさのほうが先に立ってしまってとてもできることではない。そしておそらく、僕が公子の姿勢に衒いのなさを感じ、またその衒いのなさに違和感を抱いてしまうのは、このあたりの行き違いに起因しているように思われる。公子を含め、『青玄』の現代語使用や分かち書きにどこか時代錯誤の感があるのは、そうした方法の存在を理由づけていたはずの状況認識が、すでに僕たちに共有しにくいものになっているからだろう。彼らの後半戦とは、いわば僕たちにはすでに見えなくなってしまった敵と対峙しているような、奇妙な光景ではなかったろうか。そしてまた、公子の生涯の過半はこの後半戦に費やされたというべきではなかろうか。だが、一四冊もの句集に収められた膨大な句には、そうした徒手空拳の痛みの痕跡を見出すことがほとんどできない。公子の現代語使用や分かち書きへの執着は状況への抵抗でもルサンチマンでもなく、もっとあっけらかんとしたものであったように見える。
いってみれば「伊丹公子」とは、「急速な言葉の無力化に対応できず、俳諧への先祖返りが顕著になっている」という状況認識を有しつつ、しかし一方ではそうした状況に対する抵抗というよりもむしろ「『つくらずにはいられない俳句だからこそ自分の言葉である現代語で……』という以外にありません」という極私的な申し訳を自他に認めながら軽やかに書き続けた者の謂ではなかったか。『メキシコ貝』には「反対 反対 デモ過ぎ 森に真珠いろの陽が」という句を見ることができるが、「デモ」にとびこむのではなく、その過ぎ去った後の森に射す「陽」の美しさをまなざしえたのは、公子にとって状況を認識するということが、その状況を極私的な場所にまで落とし込むことであったからだろう。思えば、『メキシコ貝』の巻頭に据えられた「思想までレースで編んで 夏至の女」はそれを象徴するものであった。そしてこのような衒いのなさこそ、公子に分かち書きという「異端」の方法を生涯にわたって肯定せしめたものではなかったか。「伊丹公子」にはそもそも転向も屈服もありえなかった。これは、たとえば同世代の八木三日女などとは決定的に異なる道行であった。公子の周囲ではかつて少なからぬ数の作家たちが「個々の俳人が持つ俳句への執着を、戦後日本の現実においてあきらかにしようと」躍起になっていた。しかし彼らの多くはやがて転向や屈服を経験することになったのである。
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