『円錐』第六三号(二〇一四・一〇)で、今泉康弘が寺山修司に関するきわめて重要な指摘を行っている。同号に掲載された「寺山修司と『差別語』―その書き変えの問題」がそれである。今泉はすでに角川文庫から出された寺山の著作の「差別語」の書き変えを逐一調査していたという(「寺山修司におけるいわゆる「差別語」と角川文庫によるその書き変えについての資料」『日本文学論叢』法政大学大学院日本文学専攻、二〇〇四)。今泉は「角川文庫は、もはや寺山の文章を読むためのテキストではない」と述べているが、しかしながらそれ以上に驚いたのは、『寺山修司俳句全集』(新書館、一九八六)においても『寺山修司の俳句入門』(光文社文庫、二〇〇六)においても「差別語」の書き変えが行われていたということ―とりわけ『寺山修司俳句全集』においては書き変えを行った旨の断り書きが見当たらないという指摘であった。
詳しくは『円錐』を参照していただかなければならないが、たとえば今泉は青森の俳誌『暖鳥』に掲載された寺山の文章「自己形成へ―県下高校生俳句大会について」(一九五二・一〇)に見られる次の部分を挙げて、その書き変えの実態を検証している。
句にはさすがに花鳥諷詠がなく、その反面、やたらに「孤児」や「びつこ」が多かった。
これは特に山彦会員に見られた現象であつてよく言えば新興俳句的野性への目覚めであり、若さの横暴であるが一考を要するところであろう。
この部分に用いられた「びつこ」が『寺山修司俳句全集』『寺山修司の俳句入門』では「身体障害者に関するもの」という言葉へと書き変えられていること、さらにカギカッコを削除してしまっていることを指摘したうえで、今泉はこのような書き変えが「びつこ」という具体性の消失やその他の障害をも指してしまうということを懸念するだけでなく、当時の高校生俳人たちの表現者としての志向や俳句観を見えなくするものであるとしている。
寺山の記す「新興俳句的野性」とは、新興俳句のもつ革新的傾向のことだろう。それは、一つには用語の新しさであり、また一つには社会問題への志向でもあろう。というのは「孤児」とは戦争による孤児のことだと考えられるからである。同文章に引用された京武久美〈夜の蝗孤児が濡らせし重き軍靴〉にそれが暗示されている。とすれば「びっこ」もいわゆる傷痍軍人のことを描いたのかもしれない。つまり、「びっこ」という語には、そうした形での当時の高校生俳人たちの社会的関心が具体的にあらわれている可能性がある。
『寺山修司俳句全集』の刊行は一九八六年(寺山は一九八三年没)であるが、この刊行年と同書に書き変えに関する断り書きのないこととをあわせて考えれば、今泉のいうように「編集部が勝手に書き変えたということになる」とするのが自然であろう。今泉は「ハッキリ言ってしまうと、『全集』も『入門』も、俳句についての寺山の文章を読むためのテキストとしては信用できないものだ」と断言する。その通りであろう。寺山に限らず、ある俳句作品の初出にアクセスすることはしばしば困難を伴う作業となる。そうであればこそ、『寺山修司俳句全集』は俳句作品の初出や異同を示したのであろうし、こうした書誌的なことがらを丁寧に提示するという仕事ぶりに僕もまた信頼を寄せていたのである。また『寺山修司俳句全集』も『寺山修司の俳句入門』も寺山の俳句を集めたそれ以前の本と異なりアクセスしにくい寺山の俳論をいくつも収めている点が画期的だったし、そこにはまた、寺山の俳句に対する編集者の深い理解や後世に寺山の俳句を伝えようとする志のありようがうかがわれもしたのである。
実際、寺山のように他者の作品をアレンジ・コラージュして自らの作品とするような作家の場合、その作品の制作された文脈を知ることがより豊かな読みに繋がるということがある。たとえば寺山に次の句がある。
みぞれにて孤児の軍靴曠野の泥
この句は一九五二年一〇月に発表されたが、この句に先行して発表された作品に京武久美の「夜の蝗孤児が濡らせし夜の軍靴」がある。これは先の「自己形成へ―県下高校生俳句大会について」のなかで寺山が引用している句であるが、この文章が「みぞれにて」の句と同時期に書かれたことを鑑みれば、寺山が京武の句を念頭に置いて「みぞれにて」の句を詠んだと推測するのはそれほど無理なことではないだろう。今泉は京武の句に当時の寺山周辺の高校生俳人たちの社会問題への志向のあらわれを見ているが、寺山はこうした同世代の作家たちの志向を指摘しつつ、自らもまたそうした表現の渦中へと自覚的に参入していこうとしていたのかもしれない。この句は「山彦俳句会」で発表された句であるから、当然京武も目にしたであろうし、寺山もまた京武が目にする可能性を考慮に入れていただろう。ここには、同世代の俳人たちのオーガナイザーであり批評家でありつつ、一方では他者の作品を織りなおすことで同世代の他の作家に先駆けて次の一句を展開していこうとする俳句作家としての寺山の姿―そしてその織りなおしを隠すどころかあられもなく開示する寺山の姿がある。寺山の表現行為に対してはのちに剽窃であるとの批判がなされたが、こうした寺山の志向をふまえればそのような批判はむしろ不当なものであったとも思われるのである。
このように、寺山の俳句は寺山がその当時関わっていた「場」との関わりのなかで生まれてきたものであり、そうであればこそ、今回のような無断の書き変えは看過できない問題なのである。今日、『寺山修司俳句全集』を寺山の俳句や俳句に関わる文章を読む際のテキストとしている者は決して少なくないはずだ。今泉はいずれ『寺山修司俳句全集』『寺山修司の俳句入門』と初出とを比較対照したものをつくりたいと述べているが、これは決して今泉の個人的な寺山への愛着から発した言葉ではあるまい。今泉の問題意識はもっと広く共有されるべきものであると思う(なお、現在では新書館版『寺山修司俳句全集』を底本とし増補・改訂を行った『寺山修司俳句全集 増補改訂版』(あんず堂、一九九九)が刊行されている。あんず堂版を確認したところ、「自己形成へ―県下高校生俳句大会について」では新書館版と同じく書き変えが行われており、また、書き変えに関する断り書きも見当たらなかった。この点については、新書館版を底本とするのだからいわば当然のことであろうが、あんず堂版で増補された文章には書き変えが行われていないのだろうか。現在では新書館版よりもむしろあんず堂版のほうが入手しやすいと思われるだけに、気になるところではある)。
ところで、こうした差別語について加藤夏希は一九七〇年以降に規制が行われるようになったとし、次のように述べている。
一九七〇年代から起き始めた差別語問題は、「部落差別」から、「障害者差別」、「人種差別」へと徐々に枠を広げていったことが分かる。そして、児童書や小説が次々と絶版・回収に陥っていく風潮の中で、差別語問題に関わるのは「怖い」、「面倒だ」といったイメージが広まっていった。そして、『言い換え集』が多数出版され、差別語の「言い換え」のマニュアル化が進み、やがて問題の過熱化が「言葉狩り」と批判されることとなったのである。このような風潮の中で、『ちびくろサンボ』の絶版は行われた。早すぎる絶版を批判する研究者も多いが、絶版を急いだ要因には、当時の差別語問題の過熱、米国からの批判、出版社の企業イメージ回復といった背景があることは認識すべきである。
(「差別語規制とメディア 『ちびくろサンボ』を中心に」『リテラシー史研究』リテラシー史研究会、二〇一〇)
ようするに、『寺山修司俳句全集』における書き変えが行われた一九八〇年代は、差別語への規制が次第にその対象となる枠を広げ、エスカレートしつつあった時代だったのである。興味深いのは、先の記述のなかで加藤が『ちびくろサンボ』絶版・回収の急がれた理由を、対外的な事情に見出している点である。今泉は角川文庫の措置を「事なかれ主義」と批判しているが、いわば差別語問題に関わることの「面倒」くささが寺山の作品の書き変えとして結果したのかもしれない。
だがこうした書き変えについては、それを実行した編集者や出版社の側にのみその責任を負わせてよいものではあるまい。こうした書き変えが行われたのは書き変えを望んだ者がいるからである。いうまでもなくそれは読み手―僕たち自身である。もちろん僕は差別を助長しようとは思わないし、こうした読み手の態度はある意味では真っ当なものだと思う。そして、だからこそこうした読み手の態度はいくら批判や反省をしたところで絶えることはないだろうと思うし、絶えてしまってはいけないとも思う。だが一方で、こうした態度がテキストの不用意な書き変えの呼び水となったのも事実であろう。いわば寺山のテキストを書き変えたのは僕たち自身なのである。『寺山修司俳句全集』を疑うまなざしは、反転して僕たち自身へと向けられるものでもあるはずだ。ならば、僕たちに必要なのは『寺山修司俳句全集』の改訂をぼんやりと待つことではなく、書き変えを望みつつ拒むこと―この二重性を引き受けながらその改訂を待ち受ける姿勢であろう。
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