【俳句新空間参加の皆様への告知】

【ピックアップ】

2014年10月31日金曜日

第3号

※「BLOG俳句空間」は基本隔週更新です。(記事により毎週・毎日更新もあります。毎週・毎日更新の記事は、右の[俳句新空間関連更新リスト〕ご参照ください。)




  • 11月の更新(第4号11月14日/第5号11月28日更新予定)




  • 平成二十六年 俳句帖毎金00:00更新予定)  》読む

    秋興帖,第三  水岩瞳・花尻万博・小林かんな・堀田季何・坂間恒子・澤田和弥



    【角川「俳句」11月号特集記事の補強版】
    • 「角川俳句賞の60年」異聞 …筑紫磐井  》読む

    【句集を読む】
    • 中村苑子『水妖詞館』 
    あの世とこの世の近代女性精神詩 53.54.55.56.57.58
      吉村毬子  》読む




      当ブログ媒体誌俳句新空間』を読む(毎金00:00更新)
      堀下翔、仮屋賢一、網野月を、浅津大雅… 執筆者多数  》読む
        およそ日刊「俳句空間」 (11月は月~土00:00更新) 
          日替わり詩歌鑑賞 
          黒岩徳将・青山茂根・今泉礼奈・仮屋賢一・北川美美 》読む
            大井恒行の日々彼是(好評継続中!どんどん更新)  》読む 



              【時評コーナー】


              • 時壇(基本・毎金更新)新聞俳句欄を読み解く
                ~登頂回望~ その三十八・三十九網野月を  》読む
                • 俳句時評 (隔週更新  担当執筆者: 外山一機 / 堀下翔)
                俳句じゃなくてすいません―渡辺とうふの土下座が問うたもの―   
                 外山一機     》読む 

                • 詩客 短歌時評 (右更新リスト参照)  》読む
                • 詩客 俳句時評 (右更新リスト参照)  》読む
                • 詩客 自由詩時評 (右更新リスト参照)  》読む 




                  あとがき   読む





                        当ブログの冊子!-BLOG俳句空間媒体誌- 

                        俳句空間No.2 ‼















                        -俳句空間ー豈 第56号2014年8月7日発売!!邑書林のサイトからご購入可能です

                        筑紫磐井連載「俳壇観測」執筆


                        角川俳句賞特集‼
                        新人誕生の歴史!筑紫磐井
                        多作多捨って、面白い! 本井英、中西夕紀 ほか







                        第3号 あとがき

                        北川美美

                        第3号。 筑紫氏執筆の<角川「俳句」特集「角川俳句賞の60年」異聞>は角川『俳句』11月号の特集の補強版となっています。『俳句』11月号と合わせてご覧いただくとより興味深い内容となっています。 

                        <およそ日刊・俳句新空間>、11月より日替わりで詩歌鑑賞を行います。11月は月~土00:00更新。どうぞお楽しみに‼
                        <俳誌「俳句新空間」を読む>では、大学生の浅津大雅さんが、佐藤りえさんの20句詠「「麝香」についての鑑賞。発行部数に限りがありなかなかお手元に届かない俳誌「俳句新空間」ですが、ブログにてその一部をご堪能ください。

                        <俳句時評>は外山一機がさんの回。渡辺とうふさんの芸術祭参加のパフォーマンスについてご寄稿いただきました。

                        当ブログで俳句時評を担当されている堀下翔さんの石田波郷俳句新人賞受賞祝賀会の二次会にお邪魔してきました。堀下さんが高校卒業のあたりからやりとりが始まりましたが、相当な大人であることを感じました。実際にお会いする堀下さんは、主賓でありながら最年少ということもあってか恐縮しきりで緊張されていた様子でした。


                        清瀬市発行の受賞作品掲載の冊子を発注し本日到着。(A4サイズで字が大きく見易くてありがたい。)選考過程の詳細、選考委員の10句選などあり読み応え充分。

                        石田波郷俳句大会新人賞は以下。

                        新人賞       堀下翔 
                        新人賞・準賞   永山智郎 
                        新人賞・奨励賞  今泉礼奈 
                        新人賞・奨励賞  黒岩徳将 
                        新人賞・奨励賞  堀切克洋

                        準賞の永山智郎さんはなんと17歳(開成高校在学中)。というのも石田波郷俳句新人賞は、俳句甲子園で登場した若い才能がさらに注目を集める「第二ステージ」として位置づけられている見方があるとの大会実行委員の谷村鯛夢氏の記述が大会冊子にあり。

                        (谷村鯛夢氏といえば、「胸に突き刺さる恋の句―女性俳人百年の愛とその軌跡」は面白かった。さすが女性誌編集者と頷きながら拝読。25ansの編集者が俳句というのがなんというか新鮮な驚き。)






                        筑紫磐井
                        (今回は長く語りすぎたので、後記は省略)




                        【俳句時評】 俳句じゃなくてすいません―渡辺とうふの土下座が問うたもの― / 外山一機

                         九月一三日から一〇月一三日にかけて、土日を中心に一三日間にわたる展覧会「国立奥多摩美術館~13日間のプレミアムな漂流」が開催された。国立と銘うってはいるものの青梅線「軍畑」駅から徒歩十数分の奥多摩の山中に日本国の国立美術館などあるはずがない(むろん「くにたち」でもない)。会場は普段アトリエと使用されている元製材所である。入館に際しては「展覧会、作品鑑賞による危険実害事項に関する同意書」へのサインを求められたが、これは決して冗談ではない。

                        パンフレットには「ごあいさつ」として館長の佐塚真啓による次の言葉がある。

                        二〇一二年開館しました本美術館も、二年という歳月。雨風に耐え、そして今年の大雪、あと一日降り続いていたらつぶれていたのではないかという自然の猛威に脅え、更なる進化をとげてこのたびの展覧会開催に至りました。 
                        今回は「13日間のプレミアムな漂流」 
                        道が整備しつくされ、いたるところに解説や注釈があふれ、自分の意志を超えたところですべてが調合されている現代。自分の意志を超えた大きな力によって流され、漂うという意味においては、過酷な漂流の真っただ中にあるのではないでしょうか。
                        私はそんな状況の中で、嬉々とし悠々と舵をきる人たちを知っています。

                         台風一八号、一九号の直撃に耐えながらも会期を終えたこの展覧会の作品の多くはしかし、展覧会後には処分されるのだという。たしかに、引き取り手のない巨大なオブジェや絵を保管・保存しておくことはなにより経済的に困難であろう。そういえば先日NHKの「新日曜美術館」で森村泰昌が中高生向けのワークショップを行っている様子が放映されていたが、そのなかで自らの作品を子どもたちと一緒にごみ箱に捨てるというパフォーマンスを披露していた。しかしこのような森村のパフォーマンスは、まさに「森村泰昌」という特権的な作家をしてはじめて許されるものであろう。森村の作品には買い取り手があり、また美術館という場所に適切な温度と湿度で保存されることもある。ときにそれは国家や地方公共団体の予算によって行われることさえある。だがこのようなごく一部の作家のそれを除いて、この世に生まれ出た多くの作品は日光や雨風にさらされ、あるいは展示後早々に廃棄されるのである。森村泰昌が自らの作品を廃棄するという行為に意味を見出すことができたのは、いわば森村が作品を廃棄されなかった経験を持っているからであろう(考えてみれば森村はまた、作品を廃棄するという一回限りのパフォーマンスを日本国の公共放送を担うNHKが録画して保存してくれるようなきわめて特権的な作家なのだ)。

                        一方、「国立」を偽装し「美術館」を偽装する「国立奥多摩美術館」の作品群はともすれば自らの手で廃棄する以前に自然の力によって破壊、流失されかねないものだ。そのような場所で、一〇月一一日、参加作家の一人である永畑智大と一夜限りのパフォーマンスを行ったのが俳人の渡辺とうふである。無所属で活動し、青梅市で「俳句リヤカー」なるものを引っ張って俳句を売っていたこの俳人の動静を知る方法はウェブ上の渡辺のブログ、あるいはツイッター(ユーザー名nishinarihaiku)しかない。しかし、かつてウェブサイト「詩客」に掲載された次の作品(「回天」)で渡辺の名を知った者もあるかもしれない。

                        マンブリーノの兜に掬う秋の水 
                        あしながおじさんの部屋にふゆの蠅 
                        ああ松島や松島や 愛してるぜ 
                        日の丸よ日の丸よ赤いクレヨン 
                        日の丸よ日の丸よ黒いクレヨン 
                        日の丸よ日の丸よ白いクレヨン 
                        日の丸よ日の丸よ世界中の画用紙よ 
                        日の丸よ日の丸よあばれだすクレヨン 
                        日の丸よ子供たちよクレヨンの全色よ 
                        日の丸の如き枯野人アフリカ人 
                        伊一六五潜水雷長入沢三輝大尉よ 
                        海軍工廠魚雷実験部の冬 
                        歳時記へと向って進む冬の人間魚雷 
                        ああ松島が松島が 燃えている 
                        洗面器の水に冬の蠅の最期


                         しかし、渡辺の本領はこの作品のコメント欄に記された膨大な量の俳句にこそある。

                        すぬーぴーがこしかけているいちじていせん 
                        あのすぬーぴーではありません 
                        助手席には風しか乗せないすぬーぴー 
                        おんがくしつにわすれものしたすぬーぴー 
                        鉄アレイみたいにむりょくなすぬーぴー 
                        あなたのおもいでのすぬーぴーよ 
                        生れたてなのにすぬーぴーです 
                        あらためてあらためてすぬーぴーです 
                        彼女はきょうはずいぶんとすぬーぴー 
                        すぬーぴーがわるいにきまっている


                        これはほんの一部である。「回天」に対するコメント欄に渡辺自身がこうした自動筆記的ともいえる作品を大量に投稿しているさまには、一種の狂気すら感じられる。だがこれこそが渡辺なのだ。

                        「過酷な漂流の真っただ中」にあって「嬉々とし悠々と舵をきる」者のありようとは、たとえばこういうものなのではあるまいか。そして今回の展覧会ではそうした渡辺のありようがより先鋭的に表出されていたように思う。

                        一階と地下一階に分かれた会場のうち、一階最奥の、屋根こそあるが床も壁もないガレージのような場所―おそらくはかつてそこを製材所の車両が出入りしていたであろう場所―に永畑の作品はあった。屋根から針金で吊るされた巨大な女の人形が目を引く。ガムテープでつくられたこの女の関節は奇妙に捻じ曲げられ、電動ドリルの埋め込まれた鼻はぐるぐると回転し、目と舌はとび出している。女の腹からはまた小さな人形が吊るされ、鼻と連動するようにぐるぐると回転を続けている。手元のパンフレットには蜷川千春による次の解説がある。

                        永畑の作品は「具体と飛躍」である、彼の造形物には「らしさ」が潜んでいる。新聞やガムテープ、発泡スチロールなどを主な造形素材とし、現れた形体は人体、女神、頭部など、一見して誰もがそれとわかる具体形体を持つ。その反面、それらの造形物には永畑が集めた日用品や工業用品、家電などとの組み合わせ、あるいは動力装置によって与えられた動きにより、それまで感じ取っていた「らしさ」から飛躍し、私たちの推測を裏切る。 
                        しかし、私たちが感じ取る「らしさ」の確定要因は何だったのか。それは作品へ向ける眼差しの中に親しみを含み、日常的な場での行いが地続きに持ち出されているからであろうか。(傍線原文)

                        周囲には渡辺の俳句が書かれた短冊が散らばっているが、剥き出しの基礎や廃材のようなもの、廃棄するまでとりあえず置いてあるだけの作品、さらには土や石や植物が混然となったこの場所ではいったいどこまでが作品なのかは判然としない。午後五時四〇分、二人のパフォーマンス「奥多摩に流れ着いた男たちの詩」が始まった。すっかり陽は落ちて、会場脇の都道一九三号線を行き来する車やバイクの音がときおり聞こえる。

                        はじめに原付に乗った永畑と渡辺が登場する。永畑は股を広げた人形の付いたヘルメットをかぶりパンツ一枚である。渡辺は乳首と臍のようなものが触手のごとく伸びたコスチュームを身に着けている。先ほどの女の人形の周りをぐるぐると巡りながら永畑が「秋の夜」とつぶやく。渡辺は金属バットで地面をこつこつ叩きながら「いろはすだろ」と返す。やがてそれと呼応するように「いろはすだろ」という女の声がする。金属バットから鹿の角に持ち替えた渡辺は「いろはす」を却下すると、

                        「『だいたいが』、そうやろ。…『だいたいが秋の月など』」

                        だが永畑が「秋は季語だろ。季語を工夫したほうが」と言うと、渡辺は少し声高になって言う。

                        「『だいたいが秋でもないし』」

                        そしてまた、

                        「『だいたい』というところにどういう字をあてるか考えろ、考えろ、漢字かカタカナかローマ字かギリシア語かロシア語か」

                         だが永畑の「だいたいにはもう飽きたし」という言葉に、再び女の「だいたいにはもう飽きたし」という声がする。渡辺はまた「だいたいにはもう飽きたし鹿の角」「だいたいにはもう飽きたしサングラス」などと呟きつつ、ガムテープを地面に貼りつけるとそこへ「だいたいがもう飽きたし」と書きつける。渡辺がこちらにやってくる。長く伸びた乳首のようなものをこちらに近づけ下五に当たる言葉を訊いてくる。すぐ隣で「言葉がないのかあんたには!」と渡辺の叫ぶ声が聞こえる。やがて観客から言葉が出てくる。

                        「米をとぐ」「ガムテープ」「終わらせろ」「次は何」「トイレ行こう」「寒くないですか」「春だし」「こんにちは」「秘宝館」「舌を噛む」「さようなら」「乳首みょーん」「シクラメン」…。ときおり歓声や笑う声がする。一通り聞き終えた後で「インスパイアされた?」という永畑の言葉に「命に関わるよこの五文字は」と苦笑する。再び人形の周りをぐるぐるとまわりながら、渡辺が喇叭とハーモニカを吹き始める。すると永畑もギターを弾き、歌い始める。

                        「だいーたーいがーもうー飽きたしー」

                         やがて観客も一緒に歌いはじめると、渡辺は縄をもってふらふらと踊るようなしぐさを始める。たった今渡辺が「だいたいがもう飽きたし」と書いたガムテープが足で踏みつけられ、足の裏に貼り付くが、渡辺はかまわずずるずると引きずっている。

                        さて、永畑が「もういいだろ、正解は?」と聞くと、渡辺は乳首を女の人形の口へとマイクのように向ける。しかし声がない。すると突然渡辺は土下座し、女に向かって言う。

                        「俳句じゃなくてすいません!すいません!俳句なんかやってなくてすいません!」

                        やがて永畑に促されるようにして二人は帰る。未練らしく何か言いあっている。足には先ほどのガムテープがまつわりついている…。

                        僕は渡辺が引きずっていたガムテープが気になってしかたがない。あんなふうに自らの俳句を足蹴にし、踏みにじり、しかしどこまでも執着するということが、たしかに僕にもあったような気がするからである。しかしながら、僕はまた、あそこまで格好悪くなる前に、僕はその執着を無かったことにしていたような気もする。渡辺は「俳句じゃなくてすいません」と言っていた。これは誰に謝っていたのだろうか。あの人形の女に?そうではあるまい。「俳句」に対してであろう。あるいは僕やあなたに対してであろう。たしかに俳句はいつでも私たちを待ってくれるのかもしれないけれど、その待っている場所にどうしても辿りつけない者や、その辿りつけないということに対してどうにもならない後ろめたさを抱えている者もいるのだ。渡辺がさらけ出したのはこの後ろめたさなのではあるまいか。

                        飯島耕一は「探す」という詩で次のように書いた。

                        おまえの探している場所に
                        僕はいないだろう。
                        僕の探している場所に
                        おまえはいないだろう。
                        この広い空間で
                        まちがいなく出会うためには
                        一つしか途はない。
                        その途についてすでにおまえは考え始めている。

                        けれど、その道が見えていてもどうしてもそこを歩くことを躊躇してしまう者だっている。道が見えているのに、その道を歩くことのできない自分に後ろめたさを感じている者だっている。あるいはこう言えばいいだろうか。古谷実は漫画「ヒメアノ~ル」で女性の首を絞めることで性的興奮を覚える男の姿を描いたが、その男が自分の抱え込んだそうした業を自覚したとき涙を流していたのを、僕は忘れることができない。彼は許されてはいけないし、彼は否定されなければいけない。それゆえに彼は苦しいが、だからといって彼を許すことは彼にとって救いになるのだろうか。むしろ徹底的に彼を否定し許さないという覚悟をもって彼と対峙することこそが、彼と誠実に向き合うということなのかもしれない。安易な許しや肯定ほど、彼にとって侮辱的なものはないのではないか。「渡辺とうふ」とは、こうした後ろめたさを抱え込んだまま俳句をつくり続けている者の謂なのである。

                         僕たちにはこんなふうに俳句をつくることがあっただろうか。僕は渡辺の俳句を「これも俳句なのだ」というふうに妙に寛容になって受け入れようとは思わない。そういう寛容さをもってしては決して渡辺の俳句の本質は見えてこないだろう。渡辺の俳句に真摯に対峙するということは、たとえば渡辺の営為やその作品を完膚なきまでに否定するということだ。そもそもこの渡辺のパフォーマンスの無意味さは何なのだろう。こういう営為を前にして僕たちが心を動かされたとか、考えさせられたとか、そういう言葉を安易に口にするのなら、それはきっと嘘だ。あるいは都合のいい逃げ口上だ。渡辺の俳句とは、きっと「これも俳句だ」と評し、許すような、妙に大人ぶった優しげなまなざしからは決して見えてこない何ものかを抱え込んでいる。渡辺の見せたものは、いわば「これは俳句ではない」という断定と、それと裏表をなす「これが俳句だ」というような―もっといえば「これだけが俳句だ」という命がけの断定である。ならば、そうした断定を前にしたとき、たとえば強い嫌悪感や拒否感を表明することこそ、むしろ僕らの目の前に突き付けられたものに誠実であるということなのではあるまいか。

                        結局、この二十分あまりのパフォーマンスにおいて「俳人」たる渡辺は俳句をひとつも完成させることができなかった。それどころか、「俳句じゃなくてすいません」と土下座さえしているのである。このパフォーマンスの気味の悪さは、途中までは「俳句」なるものについてあたかも僕たちの自明のこととしている認識の枠組みに寄り添うかのように見えたところにある。現に、僕たちは、変則的な韻律ながら「だいたいがもう飽きたし」の後に続く下五を探し、それによって「俳句」をいとも簡単に完成させようとしていたではないか。あのとき、こんなふうにすればみんな「俳句」をつくることができるのだと信じた瞬間があったではないか。けれど、もしも僕たちの知っているその「俳句」とどうしてもにこやかに手を結ぶことができない自分に気づいてしまったとしたら、そのとき僕たちはどうしたらいいのか。渡辺はそれを問うているのだ。

                        偶然にも先ごろツイッター上で作句法に関する議論があった(「俳句の作り方 12音+季語?」)。また総合誌においても下五や中七の穴埋めを行なうような企画が立てられこの種の方法の効用や楽しさがうたわれることがあるが、そもそも、そのような営みの果てに「俳句じゃなくてすいません」と土下座する者がいるなどと、誰が想像できるだろう。僕たちはこの種の想像力を決定的に欠いている。僕たちは昨日も今日も俳句をつくっているし、そのことに何のやましさもない。いや、やましさがたとえあるにせよ、それは結局「俳句なんかやっている」ということに対する俗っぽい羞恥心や安易な自虐的態度に回収されてしまう程度のものにすぎなかったりする。また僕たちはそれを「それでも俳句をやっているのだ」と居直ることで解消しようとさえする。このような僕たちには、渡辺が立っている場所など思いも寄らないものであるだろう。だが渡辺はいまあなたの前に土下座しているのだ。「俳句じゃなくてすいません」―渡辺は自身の営みが「俳句」ではないものへと結果してしまうことを白状するとともに謝罪しているのだ。そしてまた、あなたに問うているのである。すなわち、この謝罪を前に、あなたはどうするのか。



                        中村苑子の句【『水妖詞館』―あの世とこの世の近代女性精神詩】 53.54.55.56.57.58/吉村毬子



                        53 遠き母より灰神楽立ち木魂発つ


                        「吉村さんは妖怪とか興味ありますか?」と聞かれ、苑子と水木しげるの話をした事がある。私は、少女の頃好きであった〝ゲゲゲの鬼太郎〟の話くらいしかできなくて、残念でありまた申し訳なかった。苑子は、話を展開したいようでいろいろ聞いてきたが、私は知識がとぼしくて話相手になれなかったのだ。倉阪鬼一郎の『怖い俳句』が苑子存命中に刊行されていたなら、さぞかし喜こんだであろう。(登場する女流俳人の中で最も多くの作品が取りあげられている。)

                        江戸時代の妖怪絵師、鳥山石燕(水木しげるは、石燕を継承している作風でもある。)の妖怪画集『画図百鬼夜行』の中に「木魅(こだま)」と題した、木々の傍らに老いた男女が描かれた画がある。今回から始める第3章の「父母の景」を書くにあたり、私はその画を苑子と苑子の木に宿る神霊の如き「父母の景」に捧げたいと思う。

                        掲句の木魂も字は異なるが、木に宿る神、木の精霊であり、それは母なのではないだろうか。第1章「遠景」の終句に引き戻される。


                        22 行きて睡らず今は母郷に樹と立つ骨

                        この句の「母郷」が、掲句の「遠き母より」にあたるのであろう。遠く過ぎ去ってしまった時間、それは何時でも呼び戻せる、また呼び戻される母と苑子だけの時空である。

                        白髪となりて一樹を歎きあふ 『花狩』 
                        降霊の一本杉とわがいくさ  
                        言霊も花も絶えたる木を愛す  
                        よるべなき木霊の憩ふ青木立 『花隠れ』

                        苑子は、木には霊が宿ることを終生疑わずにいたようである。樹木そのものに限らず、木の国・流木・木戸・止り木等、木の材質そのものも愛し、木という語にも魅了されている。木は、近代日本に生まれた世代にすれば、家であり、欠かせない生活用品でもあり、遊び場であった。高屋窓秋の木の句には木霊の声が聴こえてくるようである。

                        木の家のさて木枯を聞きませう 高屋窓秋『石の門』 
                        風もなく木は囁きてピカソの死 『ひかりの地』 
                        遥かより木がさらさらと枯音す 『緑星』

                        戦時中の満州生活からの帰還後、日本の風土が木がより繊細に研ぎ澄まされて詠われている。
                        しかし、苑子の愛する樹木の句は、『水妖詞館』(処女句集、昭和50年刊行)、『花狩』(第2句集、昭和51年刊行)が多くを占めており、それ以降の句集には、1、2句しか収録されていない。苑子を(近世までの日本を)育くんできた木が失なわれていくことは、苑子にとっても腑甲斐無いことであった。散文集『俳句自在』(平成6年発行 角川書店)の「真夏の夜の夢」では、憤りにも似た文章を載せている。

                        (前略)植物も生物なのだから、何がしかの感情はあるというもの。「成木責め」などが本当に効果があるのも、植物に感情のある証拠だと信じている。(中略)太陽は遮ぎられ、わずかに生き残った蔓科の植物たちは全部、食物となった。もはや、人間との交感どころか、人間への復讐にもえて死物狂いの攻撃をはじめ、人間を絶滅せんと怨念の蔓を窓硝子に這わせて隙あらばと狙っている。(中略)と、サボテン変じて夏の夜の夢と化した。

                        文中の「成木(なりき)責(ぜ)め」とは木(き)呪(まじない)とも言われ、刃物を持って木に向かって、「成るか成らぬか」と問い、木の陰で「成ります成ります」と木に代って答える小正月の行事である。苑子らの時代は馴染みのある風習だったのかも知れない。

                        成木責しつつ故郷は持たざりき 加藤楸邨 
                        成木責兄は大猿われ小蟹 加藤知世子

                        また、今回の句の「灰神楽」も、戦後火鉢の衰退とともにあまり使用されなくなった季語であろう。灰の中に湯、水がこぼれて灰が舞い上がることを神楽と呼んだのは、神事の湯立神楽(湯を用いて五穀豊穣・無病息災を祈願した)が、水を入れた釜の下から木を燃やして火を起こした後、灰ができることに関係がありそうだが――。木・火・土・金・水の陰陽五行思想の法則を備えているらしい。
                        いずれにしても「灰神楽」が、半世紀前頃までは日常語であったとしても、その語の呪詛的神秘性を持つ古代の響きが、苑子の詩をかたち造るのに適っている。遠い記憶の中の母が、天照大神を天の岩戸から誘い出した天細女命の如く、灰に包まれて妖しく踊る姿さえも想像することができる。その妖しくも昏い灰の踊りに、木の神、精霊が呼ばれてしまったのだという物語も成り立つ。しかし、苑子の話や随筆などを読む限りでは、子女養成の塾を開いていた厳格な明治女の母である。苑子が「灰神楽」の懐古の灰の中に母の憂いや寂寥を見れば、母の宿る木から母という精霊が母郷へ旅発ってしまったこととなる、母郷の母と常に木に棲んでいる母の二重構造という解釈に至った。

                        私と同じ世代の俳人、神山姫余の句集『未生怨/死児の森』(平成15年現代俳句協会発行)は、家・母・女のテーマが絡まりながら句々が連鎖している。






                        その句集評で私は、次のように述べた。(『未定』85号・平成17年)

                        (前略)「家」というものの屹立は、継承や血脈のみの続行では無い。埋没し再生する女という一筋の遺恨が誇示と追従を重ね合わせながら支えてきたものではないか。(後略)

                        だが、女の血脈の濃さは、男の広漠な血気にも薄められないものなのである。姫余が句集の後記にて述べていることは、誠に興味深い。

                        この世には、母から娘にしか受け継がれない遺伝子が存在するという。息子しかいない場合、母親のその遺伝子はそこで途絶えてしまうという。母から娘へ、遺伝子は何を語り伝えているのだろうか。素晴らしいことなのか、怖いことなのか、このことを何と表現すればいいのだろうか。母親が体験したことや感情が、少なからず、密かに生まれくる娘にすり込まれているとしたら…。

                        苑子は娘を産まなかったので、祖母や母から受け継がれたものは消滅してしまったことになる。「灰神楽」へ発ち去った「木魂」は、〈22 行きて睡らず今も母郷に樹と立つ骨〉となって永遠にその樹に宿ったままなのである。今では、母とともに苑子も宿るその樹は、俳句の娘たちの成木責めを秘かに待っているのかも知れない。

                        晩菊や母を離れて母を見る 大木あまり 
                        母と娘に生まれあはせし花野かな 正木ゆう子 
                        ははそはの母からははへ春の風 鎌倉佐弓 
                        野苺や母に母あることを忘れ あざ蓉子 
                        花冷えや母に母いてひとりに触る 後藤貴子



                        54 母が憑く午前十時の風土記かな


                        母の書を離れず紙魚の生きゐたり 橋本美代子

                        「母の書」は、橋本多佳子の色紙か短冊であろう。「離れず」と「生きゐたり」が、多佳子の情念の迸る句を生々しく蘇らせ、娘である美代子は改めて母の存在感に驚愕し、未だに色褪せぬその句を懐しむのである。

                        苑子の句は、「風土記」である。「風土記」は生まれ育った伊豆地方の風土や産物、文化などが記載された書物である。それは、羽衣伝説や、富士山の雪は6月15日になくなり、子の刻以降に新しい雪が降るという逸話のある駿河国風土記、また伊豆国の海底噴火や狩猟の話など富士山を中心とした山々と海、島々のことと興味の尽きないものである。が、「午前十時」が何を意味するかである。朝と昼の中間に当たるその時刻は、かつて休憩を入れる時であった。最近では、午後3時のみが一般的であるが、早朝から働く農作業や大工などの職人仕事にはその習慣が残っているところもあるかと思う。


                        ある「午前十時」、苑子は母と過ごした時代の伊豆の時間をふと思い出していると、その時空へ引き戻されていく。「母が憑く」によって、母の家や郷里に対する深淵と業が浮彫りになる。午前十時になると、燦々と陽の遍く伊豆の豊かな自然と、自他共に厳しい母の守る家への執着とが、甘味な拷問のように苑子を呪縛する。母を思う時、伊豆を思い、伊豆を思うと母が「憑く」。伊豆に憑いた母が、苑子へも憑依する。


                        母我をわれ子を思ふ石蕗の花 中村汀女

                        この汀女の句に、竹下しづの女を偲ぶ。(明治20年生・昭和26年没65歳)しづの女は、夫亡きあと(昭和8年、47歳)、5人の子を持つ彼女を支えた母が病没した後、病身を押して看病したが、力尽きて半年後に亡くなった。そのしづの女には母を詠った句が残されていないようである。

                        しづの女は、福岡県に生まれ、大正8年吉岡禅寺洞を知り俳句を始め、昭和3年「ホトトギス」同人。夫が急逝した後、福岡市立図書館の司書として勤務し、学生俳句連盟を結成し、機関誌「成層圏」(早逝した長男が編集している)の発行指導もしている。


                        短夜や乳ぜり泣く児を須可捨焉乎(すてつちまおか) しづの女『颯』昭和16年 
                        乳ふくます事にのみ我が春ぞ行く  
                        夏痩せの肩に喰ひ込む負児(おいご)紐(ひも)  
                        寒月の児や月に泣き長尿(いば)り  
                        子を負うて肩のかろさや天の川

                        しづの女の代名詞とも言える1句目を含む子育ての苦悩や喜びを詠んだ句が今も語り継がれるのは、女性が仕事を持つことが当り前の社会である現在こそ、母としての存在を時代を越えて知らしめているからであろう。


                        日を追はぬ大向日葵となりにけり  しづの女『颯』 
                        大いなる月こそ落つれ草ひばり  
                        緑陰や矢を獲ては鳴る白き的


                        しづの女は、前述の〈須可捨焉乎〉や〈汗臭き鈍の男の群に伍す〉などの豪放な句ばかり取り上げられるけれども、ここに掲げた自然を直視する奔放な明朗さに彼女の生き方の骨太の向日性が認められる。

                        先に私は、病身を押して看病した母の句がないと述べたが、父の句はある。


                        夫遠し父遠し天の川遠し 『颯』補遺 大正9~昭和14年

                        父親がいつ亡くなったのかは解らないが、「天の川」を眺めながら、夫と並べて「遠し」と畳み掛けているのだから父生前の句ではないだろう。母の半年後、病身のため亡くならなければ、母の句も作句していたのではないだろうか。


                        苑子も父母の句を残したのは『水妖詞館』からで、両親の死後詠まれていることになる。(『現代女流俳句全集』第4巻所収「初期句篇」、『花狩』初期抄、「春燈」時代も含む『花隠れ』初期句篇には見当らない。)特に『水妖詞館』には「父母の景」と章立てて22句掲載されていて、母の句だけでも10句ある。

                        苑子の「風土記」は、伊豆の「風土記」というよりも、父亡き後、母と過ごした伊豆の地での時間と風習なのかも知れない。(苑子は母の実家、伊豆で生まれているが、父が亡くなる11才までは東京で育っている。)

                        汀女の句、「母我をわれ子を思ふ」との思いを噛みしめながら子育てと仕事に追われていたしづの女の母の句を読めないことは残念でならない。しづの女の「風土記」にも必ずや母が記されていたはずである。


                        母老いて鳥のぬくみを持ち寝るか 北原志満子 
                        母の日も母の素足の汚れ居り 原コウ子 
                        母の行李底に団扇とおぶひひも 熊谷愛子 
                        吾が性(さが)に肖(に)し子を疎み冬籠 竹下しづの女 



                        55 亡き母顕つ胎中のわれ逆しまに


                        この章「父母の景」には、10句の母の句があるが、私は今回の句に最も母恋を感じる。『水妖詞館』は、25年間の句業をまとめた処女句集であるから、この句がいつ書かれたのかは解らないが、「亡き母」とあるので若い頃の作品ではないだろう。しかし、「亡き母」が「顕つ」と、苑子は胎児に戻るのである。そして、胎中にいた頃のように「逆しまに」なると――。


                        1 喪をかかげいま生み落とす龍のおとし子

                        私は1の句を鑑賞した際に〝生は死への始まりであり、生み落とした『水妖詞館』の作品全体の妖しき予兆の第1句目である。〟と述べた。生み落とされようとする前にすでに胎内で創成されていた喪失感が、1の句と今回の句との共通項となっていることは興味深い。苑子は、母が自分を産んだ時と同じように、苑子自身の分身とも呼べる処女句集『水妖詞館』を「喪をかかげ」て生み落としたのである。

                        胎内記憶があったかのように「逆しま」であったと言うのは、逆子という意味も成り立つが、誕生する者よりも、死へ向かう者としての暗示を持つ。自分は「喪をかかげ」ながら生み落とされたと認識しているようである。

                        散文集『俳句自在』にも自分は〝死〟を負って生まれたのだと思わせる文章がある。


                        (前略)詩人の吉野弘氏によれば、「苑」の中に「花」と「死」を感じます。苑に咲き乱れている「花」を見ていますとその地下に累積された「死」が見えます。その「死」を超えようとして地上に出現してきたのが、「花」なのです。
                        と、いうことになる。どうやら、私は誕生と同じに「死」の烙印も押される運命だったようである。(後略)

                        大学入学後すぐに結核病を患い、入院し療養生活をしている。何よりも医者から死に至る病名を告知されこの『水妖詞館』を編むことに至った時、苑子という名前を授かったこと然り、自分が死を迎えることは胎内に在った頃からの宿命であったと納得していたのだろう。また、告知された病気は、祖母や母が亡くなった時の病名であったと同散文集に書かれている。


                        母の胎内で生まれ落ちることを拒むかのように「逆しまに」なっている胎児。その頃の母親が如何なる精神状態であったのか、胎教がどのように影響したのかは、母親と子にしか解らない、2人だけの閉鎖された世界である。「亡き母」が顕われると、苑子は胎内にいた頃の羊水に包まれたような感覚になる。羊水とは、温かく柔かく胎児を包むものであると言われているが、苑子はそれだけではない何ものかを胎内で感受した。その羊水に浸っている感覚は、自身の死を最も実感する時なのである。死が羊水を透かして己れの躰にひたひたと沁みてくると、彼岸へと続く水へ泳ぎ出しそうになるその恐怖が、この句に詠われているのである。

                        仄暗い胎内で母と死を共有する苑子の母恋の詩である。

                        道元の『正法眼蔵』の「山水経」に〈青山運歩常、石女夜生兒〉がある。難解なのだがある件がこの稿に残響するので引いておきたい。

                        石女夜生兒は、石女の生兒するときを夜といふ。おおよそ男石女石あり、非男女石あり。これよく天を補し、地を補す。天石あり、地石あり。俗のいふところなりといへども、人のしるところまれなるなり。生兒の道理するべし。生兒のときは親子並化するか。兒の親となるを生兒現成すると参学するのみならんや、親の兒となるときを生兒現成の修證なり参学するべし。完徹すべし。


                        曼珠沙華抱くほどとれど母恋し 中村汀女 
                        母に戻す火の玉小僧半夏生 文挾夫佐恵 
                        桔梗やこのごろ母のおそろしき 山尾玉藻 
                        泣きながら責めたる母の荒野かな 津沢マサ子




                        56 母の忌や母來て白い葱を裂く


                        葱白く洗いたてたる寒さかな 松尾芭蕉 
                        葱洗ふ浪人の娘痩せにけり 正岡子規 
                        葱きざむ還りて夢は継ぎがたし 森澄雄 
                        夢の世に葱を作りて寂しさよ 永田耕衣


                        葱が冬の季語であるためか、料理の脇役である故か、明るい向日性を表現した句は少ないようである。森澄雄や永田耕衣の〝夢〟も、葱の持つ寂寥の滲み出る中に一句の味わいが深まる。


                        寒風に葱ぬく我に弦歌やめ 杉田久女 
                        幸不幸葱をみじんにして忘る 殿村兎絲子 
                        下仁田の土をこぼして葱届く 鈴木真砂女 
                        白葱のひかりの棒をいま刻む 黒田杏子


                        女性にとって葱は、毎日刻むと言って良いほど日常生活に馴染みが深い。〈葱提げて芸者が昼の顔で行く・石さと志〉と川柳に詠われるように、葱とは、女の普段着のようなものである。

                        黒田杏子の句、「ひかりの棒」と葱を言い留めた卓抜な着想も、主婦の矜持と見ることもできる。また、殿村兎絲子の句は、普遍的に女性の共感を呼ぶであろうし、杉田久女の句においては、当時の主婦の生活にやり切れない久女の感慨が表出されている。


                        余談だが、真砂女の句で思い出したことがある。

                        平成10年12月の成城句会の袋まわしにて「嫁の座」の題に、苑子は〈嫁の座や深谷の葱に涙して〉と詠み、高得点を取っている。その時に、下仁田葱や深谷葱などの話で盛り上がり、苑子は葱が好きであったと記憶している。平成9年、俳句と惜別をした生前葬「花隠れの会」以降も(平成12年秋に入院する迄)忘年句会・袋まわしと新年句会には出句をしていた。因みに平成11年12月の袋まわし(最後の忘年句会)では、「マダム・ローズ」という題に〈マダム・ローズ楽屋ですする晦日そば〉で笑いの渦の中、最高点を獲得している。あどけない笑顔であった。


                        父母未生前青葱の夢の色 『花狩』昭和51年 
                        裏階段下れば青き葱畑 『吟遊』 平成5年

                        苑子の作品世界は、非日常を彷徨する句が多くを占めており、食材の句が他の女流俳人よりも極めて少ないが、葱の句は幾つか作句している。先に掲げた永田耕衣の葱の、〈夢の世に葱を作りて寂しさよ〉の悟りのように、「葱」とは、苑子にとって卑近でありながら他に余儀の無い深遠さを宿しているようである。


                        亡母去る葱の白根に土かぶせ 三橋鷹女

                        苑子は母が葱を裂いているところを見ている。鷹女もまた母が葱の根に土をかぶせ、去って行く経緯を見ている。母に直結される葱を媒体として、母がそれぞれの場所に彼の世から飛来してくる。

                        母の還る処は葱であり、そしてまた葱を介して働く日常の姿であることを母も娘も了解している。しかし、鷹女句の「土をかぶせ」る行為に比べ、苑子句の「裂く」という語彙の選択は、苑子の胸中にある母の姿がこの〈父母の景〉の母の句に通底する緊迫感が漂う。「切る」や「刻む」ではなく「裂く」のである。母が裂いているものは葱なのだが、違う何かの代わりに葱を裂いているのだとまで思考が及ぶ。鷹女句の寒風に曝された葱の白根は、温かい土をかぶり安寧する。苑子句の白い葱は、冷たく光る刃に切り裂かれていく。

                        母の句では、酷烈な鷹女の詩型が態(なり)を秘そめる。鷹女自身が母として子を詠う場合もそうであるが、母子を描く時、鷹女は平易な慈愛に満ちた装いを呈する。鷹女は鷹女自身を追いつめながら自らの老いをテーマに身の内を刳りながら、詩が展かれていく。それに対して苑子は、母子もまた、自身の詩の世界の住人でありその中で像を成している。苑子の身の内から吐き出される母恋句は、妖しく仄白い光を放ちながら苑子自身へ憑依するのである。


                        母の魂梅に遊んで夜は還る  桂信子 
                        庭に秋草畳に母の生えはじむ  鳥居真里子 
                        霜の夜の母が肩までさはりに来る   金田咲子 
                        ふりむきざま青かげろうを吐く母よ     豊口陽子



                        57 鍵穴の向うは母のおろおろ鳥


                        中国の古典のひとつ、明時代、洪自誠の随筆集『菜根譚』に次の一節がある。


                        冷(れい)眼(がん)にて人を観、冷(れい)耳(じ)にて語を聴く

                        冷静な眼で落ち着いて相手の人間を観察し、沈着な態度で人の言おうとすることを聴く。ということだが、苑子の母とは、子女養成の塾を開いていたというからには、このような訓辞を子女達の前で述べるような女性だったのではないかと思う。しかし、今回の句には、「父母の景」のこれまでの4句とは違う母の姿が現われている。「おろおろ鳥」は、調べてみたが該当する鳥がないため、造語なのだろう。少女の頃、「鍵穴の向う」の母を垣間見てしまい、その日から別の母が創意されてしまった。多くの娘達は、ある日その局面に遭遇する時が来る。昨日までの温かく厳しく、分別のある大人の女性である母とは違う、悲劇の母、愚かな母、衰えゆく母を見てしまう。それは、母子にとって幸か不幸か解らないが、必然でなのだろう。そうして母子は女同志になるのである。


                        鍵穴を抜いて風葬身近にす 林田紀音夫 
                        鍵穴に蜜ぬりながら息あらし 寺山修司

                        この2句は趣が異なる句ではあるが、林田紀音夫の「鍵穴の向う」は、少なくとも「風葬」がもう少し遠い場所であったはずだし、寺山修司の「鍵穴の向う」は、甘美な世界を予告させる。男にとって、「鍵穴の向う」即ち部屋の内部は、外部よりも居心地の良い所としてある。女性にとってはどうだろうか。家を守り、取り仕切る責任ある城は、時には投げ出したくなる所でもあるが、近代までの女性にとって、逃避することはできない。

                        「鍵穴の向う」の母を目撃してしまった娘は、母の不幸とも呼べる一面を見続けては、いつしか己にもその血が流れていることに震撼するのである。


                        母の日や母なし母と呼ぶ子なし 後藤綾子『綾』昭和46年 
                        母の忌や月下死なうとしましたね  
                        紅梅や和紙の手ざはり母に似て


                        苑子と同年の大阪生まれの後藤綾子の母の句である。(大正2年生まれ・平成6年没81歳)1句目は、仕事(歯科医師)と俳句に時間を費やし、未婚であったのか、既婚だったとしても子を持たぬまま働きづくめの歳月を重ねた女性の「母の日」を詠む姿は、当時よりも現代女性に共感を得られる哀切さがある。他にも〈石女の庭姫生まぬ月の竹〉〈雪こんこん子を取ろ子取ろ子が欲しや〉等がある。2句目は、苑子句の「おろおろ鳥」の母のように「月下死なうと」した母を見たその日、綾子ももうひとつの母親像を創意することとなったのである。3句目の「和紙の手ざはり」、それは丹念に手間を掛けて作られる日本古来からの歴史があり、大量生産される人工の紙の安易な感触とは違う、自然と日本人の綾なす凹凸の確かさがある。その和紙と、花と言えば桜ではなく梅であった頃の雅びさと母を重ね、キャリアウーマンの走りである自身から見た遠い母の時代を大切に吟じている。

                        冒頭の『菜根譚』に、

                        成功勝利は逆境から始まるものだ。物事が思い通りにいかない時も決して自分から投げやりになってはならない。

                        の一節もある。明治の母達は誰に言われなくとも時代の波を我慢強く気丈に乗り超えてきたのである。苑子も綾子もそんな母の姿を見て育ったのだ。
                        綾子は、昭和48年大橋櫻坡子主宰「雨月」、その後赤尾兜子に師事、野見山朱鳥主宰「菜殻火」を経て、「鷹」の藤田湘子に師事。のち同誌同人。当時は珍らしい職業婦人であり、生涯歯科医師として働いた。

                        薔薇腐ちわが道はわが選びしに 綾子『綾』 昭和46年 
                        放下して白き牡丹の中にゐる 『青衣』昭和55年 
                        葦火とろとろ西行も遊(あそび)女も 『萱枕』昭和63年 
                        浮いて来い何が何でも浮いて来い    
                        とくとくの真清水化けるまで生きな     『一痕』平成7年 
                        能勢路や窓開けて待つ狼を

                        「わが道はわが選びしに」と決意し、働き続けては「放下して」きた沢山の思いがあったであろう。「何が何でも浮いてこい」とは、己れに投げかけられた言葉だとすれば痛々しいまでの矜持である。5、6句目は、没年の翌年刊行の遺句集所収である。「化けるまで生きな」「窓開けて待つ狼を」の枯渇することのない生への漲溢には舌を巻く。俳諧性を混じえながら「白き牡丹」「葦火」「真清水」「能勢路」の母の時代から変わらぬ日本の風土を独自に詠いあげている。

                        綾子は、恩師を次々と亡くし、俳句の良き理解者であった中上健次にも先立たれてしまったと聴く。幾多のことを犠牲にして、社会に貢献してきた仕事同様、常に率直な言葉で古典と現代を融合させ、躍然する句群は、才智溢れる師達との出逢いで育くまれていったものである。

                        苑子と同じように、大正生まれの綾子が現代女流俳句を新鮮な流転へ導いたことは明らかである。明治という母の時代の辛苦と気高さを認識し、不安定で不可思議な耽美的空間を大正時代の少女期に体感し、波乱の昭和を生き抜き、平成も覗いた歴史は、極めて濃厚な女性達を築きあげた。苑子も綾子も時代に選ばれた女流俳人である。苑子は「おろおろ鳥」には決してなるまいと思ったであろうし、綾子は「月下死なう」とはしなかったのだ。その母の血が流れていることを孤独に噛みしめた日々もあったであろうが…。

                        昼顔は誰にも入れぬ母の部屋 鳥居真里子 
                        指ほぐす母は坊守 花明り 松本恭子 
                        母の亡き夜がきて烏瓜の花 大木あまり 
                        母郷ついに他郷や青き風を生み 沼尻巳津子



                        58 夢に見る夜見の胎児は母がりに


                        掲句に55の句との関連性が見出される。55~58の4句(見開き2頁の4句)の両端の2句に「胎児」が据えられている。


                        55 亡き母顕つ胎中のわれ逆しまに

                        私は、55の句を最も母恋が感じられる句だと鑑賞したが、一対とも呼べる掲句もまた母恋句である。

                        「夜見」は、日本神話のあった出雲の国の地名、夜見のことで黄泉の語源にもなっている。もともと夢のことを指していた説や、闇から黄泉が生じたとの説もある。掲句の「夜見」は黄泉であり、「胎児」は苑子自身である。「母がり」は、〝母の許に・母の所へ〟という意味なので、「逆しま」であった55の胎児は、もはや黄泉の存在になってしまった。55の句に私は、母が顕われると胎内記憶があったように、母の胎内に包まれる感覚になる、と述べたが、掲句は、逆に幽体離脱した苑子が母の棲む夜見の国へ逢いに出掛けて行くのである。いずれも胎児の苑子であるということは、やはり苑子にとって胎内で過ごした母との時間は、母へ最も癒着した重要な期間である。苑子に限らずどの母子も同様であると思うのだが、苑子ほどにこだわらないのは無意識の内に、母親の胎内での蜜月の交感を忘れ去ってしまっただけなのであろう。


                        母がりの屠蘇の美ましとうけ重ね 後藤夜半 
                        母がりの夢のをはりの蓮の花 江戸人 
                        蝉殻脱げぬ蝉ゐて母がり 男波弘志 
                        草の花もう母がりといふはなく 河野邦子 
                        母がりの朝に夕べにほととぎす 下里美恵子

                        ここに掲げた「母がり」の句々は、後藤夜半の作品の他は、亡き母か存在している母の句なのか判然としない。江戸人の作品は、「夢のをはりの蓮の花」が黄泉の母との邂逅を夢に見たと読むことも可能である。男波弘志の句は「蝉殻脱げぬ蝉」が、自身とも母ともとれる。また、「蝉殻」が母で、「蝉」が自分という母恋とも思え、多種多様な解釈が展開される。 河野邦子は、現実の母と疎遠になってしまったのか、亡き母を恋しがっているのか。下里美恵子の句もどちらとも取れるが、亡き母であれば、「ほととぎす」と母が重なり、哀愁を呼ぶが――。


                        ところで、この第3章「父母の景」には母の句が10句収められているが、第2句集『花狩』にも10句掲載されている。『水妖詞館』は苑子自身の選句による編集であるが(25年間の句の中から139句を厳選)、『花狩』は、洩れた作品が惜しいからと、翌年、高柳重信、吉岡実が編集出版した句集である。(苑子は、自身の選句や編集と異なることを主張しながらも、それを楽しんでいるように語っていた。)三橋鷹女の処女句集『向日葵』と第2句集『魚の鰭』のように姉妹句集であるため、作句の期間は出版の年には関わらず、2句集とも25年間に作られた作品である。『花狩』の10句の母の句には、穏やかな句も見受けられる。


                        母を夢みて七日通へば葛の花 『花狩』

                        そして、次のような句々がある。

                        火の中へ母を放ちて火をなす秋 『花狩』 
                        走る火に野仏を据ゑ母を据ゑ  
                        置きざりの母や火の蛾は火に盲ひ

                        この前にも3句置かれ、6句の母の句が並ぶが、この3句の「火」の母が、実に凄絶であり母への愛憎相半ばした状態である。この「火」の母の連作が、『水妖詞館』から振り落とされたのは、母への感情が作句当時から微妙に変化したものだと推察され、今回の句は、「火の中へ」「置き去り」にした母への懺悔の句なのではないかとまで想像を逞しくしてしまう。しかし、「母がり」が、母許ではなく母狩りであれば、最も怖い句になろうなどとあらぬ妄想をしてしまうのも苑子俳句であり、また『水妖詞館』なのである。そして、苑子はそんな解釈も面白がるであろう女流俳人であった。

                        母の声落葉の上に落葉積む 津田清子 
                        水紋に触れては沈む母のくに 増田まさみ 
                        前の世も母の手をとり春の野へ 福田葉子 
                        花いちご母より先の死を願ふ 古賀まり子




                        登頂回望その三十八・三十九 / 網野 月を

                        その三十八(朝日俳壇平成26年10月20日から)
                                                  
                        ◆水澄めり胎児赤子になる日待つ (小平市)久保奈緒世

                        金子兜太の選である。評には「十句目久保氏。身籠もる人の澄んだ心情の日々」と記されている。お目出度を見守る側の方かもしれないが、この場合やはり作者ご自身がお目出度なのであろう。出産を待ちわびる充実した日々を送っていらっしゃるようだ。無事のご出産を祈念します。上五の「水澄めり」は季節や住居など環境を言っているというよりも、作者の心境が投影された景であり、作者の心が「澄めり」であろうと考える。明確な理由はわかないが少しずつ透明度を増してゆく心持ちを表わしている。

                        ◆爽やかに天文学的ひとりかな (岐阜市)阿部恭久

                        長谷川櫂の選である。評には「一席。宇宙の中にただ一人。「天文学的ひとり」といえば、さらりと乾いて、まさに爽快。」と記されている。「天文学的数字」という常套句を「ひとり」とやり直したのである。意味は逆転するのだが、解かり易さを産み出しているようだ。ただ、「天文学的ひとり」は、例えば人類界ならば無可有事であるので「ひとり」の個、もしくは「ひとり」の個性と解したい。

                        加えて季語の斡旋は議論があろうが、「爽やかに」が中七座五の状況の気分を言っているのであるから、この措辞へ対して作者の言った者勝ち的認識で、筆者は肯ずる。

                        ◆曼珠沙華死者は生者とともに在り (東京都)たなべきよみ

                        大串章の選である。評には「第一句。死者は生者の胸中で生きている。その生者が亡くなれば死者も消える。」と記されている。句としては、死者と生者の位置関係が逆でも成立する。むろん句意は異なって来るのであるが。選の評も「生者は死者を思って生きている。生者が生き続ける限り死者も又生き続ける」となるだろう。

                        上五の季題「曼珠沙華」は所謂付き過ぎではないだろうか?


                        その三十九(朝日俳壇平成26年10月27日から)
                                                   
                        ◆青色の光を祝い月赤く (大阪市)加藤英二

                        大串章の選である。評には「第一句。青色LEDのノーベル賞受賞を祝って赤い月が輝く。「ノーベル賞受賞に沸く日赤い月 森本幸平」にも惹かれた。」と記されている。筆者などは受賞報道が記憶に新しいので意味がよく解るのであるが、やがて記憶の薄くなる頃合いには掲句の上五中七の「青色の光を祝い」は意味が通りにくくなるのではないだろうか?

                        朝日俳壇の掲載の規定なのか前書は載らないようなので、難しいことかもしれないが、出来れば前書が欲しい。前書は「和歌や発句が贈答・挨拶など作品成立の当座性との関わりが深いため、それを散文で補うことが必要とされた。」(『俳文学大辞典』、角川書店)と解されていて、掲句はまさにノーベル賞受賞への賛辞であるから、後世の読者へは尚更に作品成立の機会が何処にあるのかが記されていた方がよいだろう。そういう意味では、評の中にある句の方が句中に「ノーベル賞受賞に沸く日」とあるから解り易いようであるが、こちらでは「青色LED」が判然としない。

                        ◆蚯蚓鳴く悩むことさえ不器用で (清瀬市)峠谷清広

                        金子兜太の選である。評には「峠谷氏。自虐達観。」と記されている。季語の斡旋は見事である。句意にピッタリであり、合い過ぎていて怖いくらいだ。中七に「悩むことさえ」とあるので、手先の不器用さだけでなく、生き方や対人関係においてさえ不器用な自己の心持ちを表わしているのだろう。が、中七座五のロジックにはパラドクスが隠されている。そもそも「悩むこと」は「不器用」なことなのだ。生き方に器用であれば悩まずに人生を巧く切り開いて行くものだ。自己の気持ちを器用にコントロールすれば悩まずにいるだろう。ただ器用な生き方をする人間とはあまり付き合いたくないものだが。

                        ◆秋の蚊やパソコン閉ぢて妻の顔 (甲斐市)堀内彦太郎

                        金子兜太の選である。秋の蚊の他に、秋の蛍、秋の蝿、秋の蟬などが古来からある「秋の・・」である。どれも盛夏に活躍する昆虫であるから飛び方や鳴き方、すばしこさは盛夏のそれに劣っている。上五「秋の蚊や」は切れ字を伴って、作者の蚊への同情を表現しているのではないだろうか?筆者の勝手な考えである。

                        ところで「妻の顔」というものは何気なしに見るものではない。彼女の機嫌や声をかけるタイミングを計って見るものであるから、パソコンの中に秘められた意図がある様で想像を掻き立てるものがある。意味が判然としない分、どうにでも面白く読める句である。



                        2014年10月17日金曜日

                        第2号

                      • ※「BLOG俳句空間」は基本隔週更新です。(記事により毎週・毎日更新もあります。)右の[俳句新空間関連更新リスト〕に最新記事が順次表示されます。ご参照ください。


                      • 10月の更新(第2号10月17日/第3号10月31日更新予定)



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                        秋興帖第二 藤田踏青・前北かおる・福田葉子・ふけとしこ・堀本 吟・中村猛虎・杉山久子

                        秋興帖第一 髙勢祥子・曾根 毅・原雅子・神谷波・内村恭子・陽 美保子・小野裕三



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                        • 我が時代――戦後俳句の私的風景」の附録
                        能村登四郎の戦略――無名の時代(8)筑紫磐井 》読む

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                        続・15、進藤一考「戀螢歩む螢となりにけり」     大井恒行  》読む

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                        • 上田五千石を読む~テーマ【暮】~  
                        「道に出て人の声聞く秋の暮   上田五千石」しなだしん  》読む

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                        • 中村苑子『水妖詞館』 
                        あの世とこの世の近代女性精神詩 49、50、51、52
                        吉村毬子  》読む
                        【句集を読む】
                        • 吉村毬子句集『手毬唄』に寄せて……川名つぎお   》読む


                        当ブログ媒体誌俳句新空間』を読む(毎金00:00更新予定…目標)
                        …堀下翔、仮屋賢一、網野月を… 執筆者多数  》読む
                          およそ日刊「俳句空間」 (10月中は月ー金00:00毎日更新) 
                          再掲載今日の小川軽舟竹岡一郎(10月)  》読む
                            大井恒行の日々彼是(好評継続中!どんどん更新)  》読む 



                            【時評コーナー】
                            • 時壇(基本・毎金更新)新聞俳句欄を読み解く
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                              〈鷹〉を旅する  堀下翔      》読む 
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                                      俳句空間No.2 ‼















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                                      筑紫磐井連載「俳壇観測」執筆


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                                      新人誕生の歴史!筑紫磐井
                                      多作多捨って、面白い! 本井英、中西夕紀 ほか








                                      第六回石田波郷俳句新人賞受賞 堀下翔さん祝賀会のお知らせ / 島田牙城

                                      みなさまへ

                                      さて、

                                      本日は嬉しいニュースをお届け致します。

                                      「里」同人の堀下翔君が、本年度の石田波郷俳句新人賞を受賞する事が決定いたしました。

                                      急な話なのですけれども、

                                      10月26日(日)に授賞式が執り行われます。

                                      ついては、彼の仲間たちで盛大(?)に祝ってやりたく、
                                      授賞式後の祝賀会を企画いたしましたので、
                                      是非ご参集頂きたく、お願い申し上げます。

                                      会の名前は【石田波郷俳句新人賞受賞記念 堀下翔を胴上げする会】です。

                                      時間割は、すべて10月26日(日曜日)午後

                                      東京都の清瀬市石田波郷俳句大会

                                      1:00~2:00 神野紗希講演会「波郷の俳句と青春」
                                      2:00~4:00 各賞授賞式(新人賞授賞式からご参加希望の方は、3:00をめどにお出掛け下さい)
                                      4:00~5:30 関係者懇親会(「里」からは10人程度参加可 あぶれた方は外で待機となりますが、大丈夫でしょう)
                                      (以上、公式行事・清瀬市けやきホールにて・全て無料・西武池袋線清瀬駅途歩5分)
                                      6:00~8:00 石田波郷俳句新人賞受賞記念 堀下翔を胴上げする会
                                           授賞式会場から徒歩2分、
                                          印度料理専門店「Panas」にて、お店貸切で行います。
                                          座席数40ですが、越えた場合には、立食形式に切り替えます。
                                          会費4800円(飲み放題)
                                          会費より、翔君へ記念品をプレゼントしますので、
                                          個々にはプレゼントなどはご放念下さい。
                                          参加希望者は、
                                          牙城ケータイCメール 080-6938-6904

                                          へご連絡下さい。宜しくお願い申し上げます。

                                      (電話=声=でのお申し込みは、僕の耳が遠いのと、入院中でメモの失落が予想されますので、ご遠慮頂けると幸いです。)

                                      翔君は「群青」という同人誌にも参加、東大俳句会にも加わっていますが、なにせまだ北海道旭川から出てきて半年です。

                                      一人でも多くの方がこの会を盛り上げて頂きたく、
                                      ぜひご参加下さいますよう、心よりお願い申し上げます。

                                      会は、「群青」「里」という雑誌名は表に出さず、誰でもが来て頂けるアットホームなものにしたく、
                                      発起人形式でやります。



                                      発起人に

                                      島津雅子さん(旭川東高校先輩枠)
                                      筑紫磐井さん(ブログ「俳句新空間」枠)
                                      今泉礼奈さん(現・東大俳句会代表枠)
                                      上田信治さん(ブログ「週刊俳句」枠)
                                      葛城蓮士さん(関東での友人枠)
                                      神野紗希さん(当日大会の講演者枠)
                                      小林苑をさん(超結社句会「TOKYO俳s枠)
                                      佐藤文香さん(俳句甲子園先輩枠)
                                      中山奈々さん(関西・明日の花代表枠)
                                      島田牙城(お世話係枠)

                                       以上が現在のところの発起人であります。
                                          

                                      【俳句時評】  〈鷹〉を旅する  堀下翔

                                      近所のデパートの古書市をぶらついていると昭和二十年代の俳句雑誌が大量に安売りされていた。「馬酔木」「天狼」「春燈」……。俳句文学館あたりへ行けばいくらでも読むことはできると知りつつ、何となくもの珍しくて、何冊か衝動買いしてしまった。

                                      開巻。感激。ろくに中身を見ずに買った「天狼」昭和二十六年一月号は第二回天狼賞の発表で、この年の受賞者は津田清子。三十歳。若い。主宰・同人欄に目を移せば、誓子、不死男、多佳子、静塔、かけい、耕衣、三鬼、窓秋、暮石、波津女と、21世紀になっても毎日のように目にする名前の目白押し。誓子選の「遠星集」は巻頭が清子。第三席には八田木枯、一句欄には佐藤鬼房の名前も見える。ああ、俳句史は実在したのだ、と思う。歳時記や評論で出会う俳句は、かつて、その時代にとってのリアルタイムで生まれていたのだ、と。

                                      それと似た思いは毎月感じている。「鷹」の表紙裏に毎月掲載される「鷹回顧展」においてである。過去の「鷹」の主要句を一回につき一号ごとに抜粋するもので、湘子、晴子から「鷹集」投句者までラインナップは幅広い。ときおりよく知った句も混じるのでそれが楽しくて毎月読んでいる。長く続く「鷹」ならではの企画である。

                                      その「鷹」がこの七月に五十周年を迎えたので別冊で『鷹の百人 鷹年譜』というのを出した。七月号本誌より分厚いこの本は、五十年間に在籍した鷹作家から主要な百人を選出して代表十五句と略歴と一句鑑賞を附した〈鷹の百人〉と、動向、記事、主要句を網羅した永島靖子による〈鷹年譜〉によって成り立っている。〈鷹の百人〉の方は現在の鷹作家による執筆で、古参同人のみならず兼城雄、引間智亮、蓜島啓介などの若手も参加している。取り上げられた作家は「鷹俳句賞受賞者を中心に、鷹の俳句の発展に大きく寄与した人物」とのことで、小澤實、辻桃子などすでに鷹にはいない人物も多い。浅学の筆者は、え、この人も鷹出身なの、と驚くことしばしばで、鷹の歴史の長さを思い知ったのであった。

                                      一方でこれまで鷹読者でなければ認知していなかった作家と出会うのも楽しい。略歴はかなり自由に書かれており、教師であるとか、市長であるとか、社長であるとか、酒飲みであるとか、おしゃれであるとか、娘が劇団四季にいるとか、旅の時は大荷物だとか、まるで俳句とはかかわりのない記述もあふれている。もとより読むという営みに作者の素性は関係のないことではあるが、さながら見知った仲の句ごとく読んだ方が、この多彩なる「鷹」の国を見て回るには、むしろ丁度よいのではないか。百人にはひとりひとりことなったキャッチコピーが付されている。【渾身の抒情】(倉橋羊村)【上方文化の豪勢と俳味】(後藤綾子)【白いひと】(仁藤さくら)といったふうにである。かくのごとく与えられるキャラクター性もまた、外部の読者を「鷹」の国へといざなう仕掛けである。その結果として読者は、このなかの幾人かの句集を参照する気になるのである。

                                      「鷹の百人 鷹年譜」を読み終えるとき、俳句史は誓子や湘子のみを記述するものではないと気づく。厖大な作者によって厖大な句がつぎからつぎへと生みだされる。途方もない営為を「俳句」は繰り返してきた。その総体を俳句史として想定することは無意味だと言う人もいるかもしれない。しかし「鷹の百人 鷹年譜」が示した作家の多様性は、検討すべき俳人がこの世に無限にいることを予感させてはいないか。

                                      〈鷹の百人〉から、数句。

                                      座一つは風邪の座風邪の子は休め       しょうり大

                                      教室に空席が一つある。教壇からそれを見つめる教師のさっぱりとしたモノローグ。「座」という硬質な語彙、定型にこだわらない切れのよい言い回し、命令形、いずれも気持ちがよい。空席は風邪の座であるというほがらかな発想といい、いかにも健康的な教師像が浮かぶ。

                                      混浴に豊年の月出でにけり      穂坂志朗
                                      なんと幸せな句だろう! 苦楽を共にした人間同士が、湯をもまた分かち合っているのである。豊年の満足感が、混浴と月とのそれぞれに表出している。

                                      けふ虻の強き翅音を味方とす      今野福子

                                      今日、何かが変わる確信と決意。そのタイミングで聞こえた虻の翅音に、気持ちを託す。些細なまじないにも似た、だれしもが知る心の高まり。

                                      どつと笑へり遠泳の開会式      菅原鬨也
                                      箸が転がってもなんとやら、というのはたしか女性に限った文句だったが、なにもかも面白くて仕方がないのは男子も一緒である。男も女も、このころ、なんだって面白い。これから泳ぐことさえ、おかしい。

                                      100人×15句。五十年を垣間見るに充分な書である。



                                       【朝日俳壇鑑賞】 時壇  ~登頂回望その三十六・三十七~ 網野月を

                                      その三十六(朝日俳壇平成26年10月6日から)

                                      ◆褒めすぎて冬瓜二つもらひけり (柏市)物江里人

                                      稲畑汀子の選である。冬瓜の個数の議論はこの場合外にして、ポイントになるのは何と言っても「褒めすぎて」の言い回しであろう。冬瓜を貰ったのが返って迷惑なようにも読めるのである。褒めすぎなければ・・、が伏線にあるのだ。迷惑までは言い過ぎでも、持ち帰る手荷物が増えて少々厄介な様子なのだ。「褒めすぎてしまったから・・冬瓜を二つ貰ってしまったのだなあ」くらいの意であろうか?少々因果関係も垣間見える。

                                      座五の「・・けり」が大仰な言い方で、文字通り「すぎて」いるのが面白いのだ。

                                      それにしても何を褒めたのであろうか?冬瓜二つ分になるものなのだが。

                                      ◆裸富士われも行けそう目を凝らす (栗原市)小野寺實

                                      金子兜太の選である。評には「十句目小野寺氏。「裸富士」には季語「裸」の生々しさがあって、中七下五の親しげな感応がよく伝わる。」と記されている。「裸」が富士を擬人化して新しい。積雪を脱ぎ捨てて文字通り裸になった富士山に作者は登山しようというのだろう。座五「目を凝らす」は何を見ている景なのだろう。ガイドブックか?地図か?それとも富士山そのものを見据えているのだろうか。

                                      ◆水澄んで己の見えぬ目が二つ (松山市)高階斐

                                      長谷川櫂の選である。上五の季題「水澄んで」は全てのものがクリアに見えるようになったこの季節に、という意であろうか。それにしても中七座五の「己の見えぬ目」はパラドクスであり、言われてみれば肯ける事実である。鏡にうつせば自分自身は見えるのだが、今や水が澄んで水鏡に自分自身が反映されない。見えたとしてもそれは反映でしかないのである。


                                      上五の「・・で」はどうであろうか?多少中七座五との原因結果が感じられはしないだろうか。しかも句全体に切れが弱い。ので、上五で切れるように工夫しても良いかも知れない。作者の好みであるが。


                                      その三十七(朝日俳壇平成26年10月13日から)
                                                                
                                      ◆切株の大小残し湖水澄む (熊谷市)内野修

                                      金子兜太の選である。評には「内野氏。大小の切株が語り部のごとし。」と記されている。前半部分を「大小の切株残し」とも考案出来るが、作者は掲句の仕方を選んでいる。作者の叙法の方が、より切株に大小があることを強調するように思われる。切株についての情報については、切ったばかりとか?何の木であるとか?無いのである。筆者は「大小」から植樹林ではなくて湖畔の自然林を想像した。自然林へ人の手が加えられたその景は無残であり、樹木を切る人間の傲慢さへの作者の怒りが聞こえてくるようだ。

                                      座五の「湖水澄む」の季感が上五中七の意と適合するか考えなければならないところだが、先日の朝日新聞の摩周湖の水質に関する記事からすると即妙な取合せであろう。とすれば、・・・切株は湖底の景なのであろうか?

                                      ◆御嶽の怒る悲しき九月かな (伊賀市)福沢義男

                                      金子兜太と長谷川櫂の共選である。事故への哀悼の意を表す句であり、時事となるで俳句であろう。嘗て数十年前以来何回も議論されて来た俳句の社会性(「接社会的」と言ったりする場合もある)とは視点が異なるが、東日本大震災以来、各俳人は積極的に時事への作句を行っているように感じる。

                                      「怒る」が噴火の形容であることは明らかであるが、「悲しき」の表現は表現として少々甘いかも知れない。時事としての重大さは十二分に理解するのだが。

                                      ◆さといものはっぱはあめのすべりだい (八女市)くまがいすずな

                                      金子兜太の選である。評には「十句目くまがい氏。この見立ては少女くまがいさんのもの」と記されている。「さといものはっぱ」と「あめのすべりだい」は同じ文型であり、上下の同型文を「は」で綴じている。ただし「の」の働きは異なっている。掲句はおよそ俳句としての常套とは遠い言い回しとなっているが、評で言う「見立て」が優れている。蛇笏のかの句「芋の露連山影を正しうす」も透明度という観点からは掲句へ頂座を譲ろうというものである。視角が捉えた印象を語句と云う象徴にトランスレイションする際の、インプットとアウトプットの際の透明度である。「青春は、清新な感性を純粋に現わしさえすれば、それだけで十分美しい。」(神田秀夫「現代俳句小史」より)のである。




                                      第2号 あとがき

                                      北川美美

                                      ブログリニューアル後の第二号をお届けします。 秋興帖が今号よりスタート(俳句帖は毎金更新です。)。 

                                      年内のスケジュールを調整しつつ、今年を振り返りはじめています。 隔週となり更新数も限られてきましたが、残りの2014どうぞ、よろしくお願いします。



                                      筑紫磐井

                                      ○毎週の到来。各地で台風の被害が及んでいる。被災者の方々にはお見舞いを申し上げる。直接の被害の連絡はなかったが、近況があればお知らせ願いたい。一方、私は腰を病んでしばらく寝たまま、坐ることの出来ない生活が続いていた。パソコンを使えないのは致命的だ。余りはかばかしく仕事が進まなかった言い訳とする。友人たちからは、年を取ったら風邪に気をつけること、腰をいたわること、と忠告が寄せられてきた。

                                      ○「BLOG俳句新空間」は、編集長の努力で新装レイアウトも華やかであり、好評のようである。本号から秋興帖が開始となるが、すでに多くの方々から作品を送っていただいている。この欄は自動更新となっているので読者も楽しみとしているようだ。2,3新しい企画も進み出すようである。併行して私は「豈」の編集も進めているが、「BLOG俳句新空間」で知り合った若い人たちにも協力をお願いしている。閉鎖的でない、俳句交流空間が生まれればうれしいと思っている。


                                      上田五千石の句【暮】/しなだしん


                                      道に出て人の声聞く秋の暮   上田五千石

                                      第四句集『琥珀』所収。昭和六十三年作。

                                              ◆

                                      五千石には芭蕉に似た表現や、型の句があることは「41回テーマ:夜」「42回テーマ:も」「45回テーマ:手」などで触れた。




                                      掲出句は型や表現が芭蕉に近いのではない。「秋深き隣は何をする人ぞ」に、内容、いや感覚が近いと思うのだ。

                                              ◆

                                      秋深き隣は何をする人ぞ」は、あまりにも有名な芭蕉の代表句のひとつであるが、一般的にはその言葉のまま「秋が深まるなか、隣人は何をしているのだろうか」といった解釈されることも多く、「秋深し」と覚えている人も多い(「六行会」には「秋ふかし」も残る)。「旅の宿りのうちに秋はいよいよ深まってゆく。ひっそりとした隣家は一体どんな生活をしている人なのだろうか」という訳もある。
                                      この「秋深き」の句についてはすでにご承知の方も多いだろうが、一応整理しておく。

                                      元禄七年、芭蕉五十一歳。最晩年の大阪での作。

                                      九月二十八日、門人長谷川畦止宅での俳席に招かれ興業を行う。これが結果的に芭蕉最後の俳席となった。翌二十九日も、根来芝柏宅での興業に招かれていたが、芭蕉は体調が優れず、出席を断念。この日の俳諧の発句として一句を書き送った。この句が「秋深き隣は何をする人ぞ」である。

                                      なお、この日以降芭蕉の容態は悪化をたどり、起き上がることもできなくなる。十月八日には、「病中吟」として「旅に病で夢は枯野をかけめぐる」を門人の呑舟に書かせた。この句が最後の俳諧となり、十二日、大阪の仁佐衛門宅にて息を引き取った。

                                              ◆

                                      「秋深き」は、二十九日の興業に出席の大阪蕉門の連衆を「隣人」と見立てて、出席できず申し訳ない、という気持ちを籠め「何をする」とした、挨拶句とも考えられている。

                                      ちなみに、実際にはこの日は流会となったようで、興行記録も残っていないとされる。

                                              ◆

                                      さて掲出句。

                                      芭蕉の「秋深き」と同様、単純には言葉の通りの「道に出て人の声を聞いた」という内容。だが、家から「道に出て」というのは、広い世界に出て、「人の声」つまりは広く他人の意見に耳を傾ける、という、ある種の理屈にも読める。

                                      この句の年、五千石は五十五歳。芭蕉の享年も疾うに越えている。俳聖と称される芭蕉の生き方、死に様に対し、己の今現在を自責する心持ちも含まれているような気もする。

                                      芭蕉の「秋深き」には、隣人へのあたたかい目線の一方で深まってゆく(自身の)秋のどうしようもない「静けさ」が横たわっている。

                                      五千石の「声聞く秋の暮」にも、どこかあたたかみの感じられる「声」という音があるにもかかわらず、ものがなしい「秋の暮」の静かさが、やはり漂っているように思える。



                                      吉村毬子句集『手毬唄』に寄せて/川名つぎお

                                      貴句集の編集は、或る通過儀礼を念頭に置いたせいか、凝りすぎて難解な構成になっている。したがって読む側も対向し、巻頭2句は最後にもってゆく。予定調和にならぬために。

                                      ドラマは3句目から始まる。佳句を集めてゆく。

                                      「青々と腐敗」や「毬落ちて」のマイナス軸への文脈に引きこんで「始まり、始まり」というスタートであった。

                                      解夏のはじまり丁寧に反故濯ぐ 
                                      石女の白露の水を授かりし 
                                      臨月を知らぬ木とゐて良夜尽く 
                                      虚空にて沐浴の二月十五日

                                      掲4句、全て一人称単数からの呻きである。「解夏」の籠りも、「石女」の「白露の水」とは、ほぼ〝不生女〟のレッテルに甘んじる絶望も、「良夜尽く」も、暗黒に落ちゆく事も、いっさいが生命を阻む方位を示現している。「沐浴の二月十五日」がどんな日であったかというより、恥辱を雪ぐ清潔さへの願いのきっかけがあったのか。とすれば、嘆く前に新しい現実として眼前の風景を認識しようとのアクションの発生が胎動しているようだ。

                                      水底のものらに抱かれ流し雛 
                                      踊り場へ落ちる椿も風土記かな 
                                      かの花野膜鳴楽器だけ響く 
                                      階段に海の残光かなかなかな 
                                      水際の空葬(からとむらひ)や昼の虫

                                      これも全て一人称単数。周囲に向けるまなざしは不要の季節であろう。1句目の「水底ものら」とは平家一族か、水子たちか。「流し雛」化したのは想像がつくが、幾たびも多様な代名詞によって表示される。2句目の「椿」がそれであろうか。3句目の「花野」は死者たちの集合地帯のよう。打楽器の皮膜の残響のごとき重低音か、夜鳴きのしゃくる声か。「階段」は「踊り場」と共に都会の喩か、そこに「海光」が届いている。悲痛感をさそう、ひぐらしの声にも似て。終句の「昼の虫」はそのまま受けとりたいと感じるのは、三人称の世界の登場らしく、初めて作者の周囲で発した他者の声である。しかし、その「虫」の声がしみじみとは聴こえず「空葬(からとむらひ)」にしか感じられないのだ。しかも、まだまだ「水」ぎわという生死を分ける場所から離れてはいない。が、他者(ここでは虫)の声が耳に入ったことは重要なファクターが内面世界に生まれたことを示唆している。

                                      毬つけば男しづかに倒れけり
                                      毬の中で土の嗚咽を聴いてゐた


                                      この2句は「章」を跨っているが、単数の一人称化が、全く次元を変えて等しい内容の2句になっている。「男」をじっくりと客体化しているし、自身の「嗚咽を聴いてゐた」と自らを過去史の中につかんでいる。そしてそのリアクションを次のように演じてみせた。これ以上の深みはないのだ。

                                      身八ツ口春の真闇を捨つる処    自身を自身から捨てる

                                      静寂を幾重に折りて羽とする     努力の物証化を得る

                                      空蟬を海の擬音で包みをり      潮騒も生命リズムになる

                                      さねさしの嬥歌の畳語うそ寒し     ライトヴァースの本質を見た

                                      みな一人称単数で、作者が最も独自性を示すのみならず、言葉の斡旋にまで、文法上強靭な態度を要求した。先ず、体言を受けての格助詞「真闇を」「静寂を」「幾重に」(この「に」も格助詞の位置で心理方向を明示するエネルギー)、「する」(普通、自動詞で、現れる、在るで〈自動詞である〉が、サ行変格では、他動詞で自分から行う、為(す)る、の活用)、「包み」(つつむ、にいかず、連用形の音〈み〉を選んだ)、さらに「嬥歌」(かがい、の音は漢音ではなく、やまとことばを映したもので、かがい=かけあう=掛け合う=男女かけつけあつまる)、そして「寒し」へ、活動する感覚語の活用が多い。さて、こう並べてみると作者の心情がきわだって、強くねばり、しなやかに尽きるまで、となる。

                                      夜の梅 ゆつくりと真水に還る    真水に還る、が、ずしんと響く

                                      遠景に解かるる手足左様なら    ほったらかしの自分を迎えに出かけた

                                      この2句はP70~P76の句群の心理構造の成立したことを伝えている。

                                      この辺りに巻頭2句を選んでみる。

                                      金襴緞子解くやうに河からあがる 
                                      日輪へ孵す水語を恣

                                      =は、言葉を支配する側が意味やイメージを操るときの態度からしか出てこない言葉なのだ。「解く」も「孵す」も他動詞、「に」も「を」も、これを逆に言うと「鬼に会ったが帰る」の意志伝達を含み、全て支配者からの発想ではない。よくここまで自らを転位させたと感動さえ覚える。

                                      雪虫を妊るための諷誦かな     願いや望みは下五のねばりに出る

                                      鳥曇りしづかに壊す自鳴琴    俳句形式をプラスに転じさせた

                                      前句がいう「諷誦」も自省をこめて深まってもいいし、「壊す」という他動詞が使えるなら「自鳴琴」という自動装置であった自己と向きあう季節のただ中に立つのも可なり、だ。さらに、自称を越えた他称と同席しあう句群の登場を言祝ぐ。

                                      謳はれし青い訛りを被ふ山    自己の三人称、新しい自画像へ

                                      走り根よ雨乞ひ唄へ還る雨     「よ」は相手(二人称)への呼びかけ

                                      晦の海を眇める山が綺麗だ ――自分讃歌の、これはチャーミングだ!


                                      3句目は「眇める山」という「私」が「綺麗だ」と断定しえた人は、2人目である。最初の女性は現代詩の茨木のり子、「わたしが一番きれいだったとき」。この口誦感は、いささか気がゆるんだぬくもりを感じさせてユニーク。あとは、毬子的日常に、一人称単数の姿として現われてくれるかということである。

                                      家に棲む真水は母を繰り返す    母(又は自分)とはそういう事だ
                                      水琴窟 獣たちが廻つてゐた        誰の過去も曳きずられている


                                      母は母のイメージを繰り返し、水琴窟だった「私」は記憶が歴史に変質するまでの「獣たち」と見做された「正体」こそが、おぼろへと「廻つて」去っていくのだ。それが日常のかなたであり、さいわいな事に吉村毬子は巻末に次の1句を配置して、どこかに脱いである金襴緞子の片わらに空間をつくっていた。 


                                      水鳥の和音に還る手毬唄        元気で次作へと方向景を。

                                      中村苑子の句【『水妖詞館』―あの世とこの世の近代女性精神詩】49、50、51、52  / 吉村毬子

                                      49 海へ残すくるぶし赤き影法師


                                      「渚」         北原白秋『海豹と雲』所収 
                                      﨟たさよ、しろき月/炎(ほのほ)しろく、/雲の翼(はね)はろばろに/行き流れぬ。/釣舟の漕ぎいづる/入り江ちかく、/さざなみの彩(あや)織(おり)に/魚(び)籠(く)ひたせば。/光るなし、かげるなし、/夕満ち汐、/うらもなし、うつつなしし、/膝、くるぶし。/夕暮れよ黄金虫/うなり過ぎて、/さんごじゅの花の香のみ/蒸しにほひぬ。


                                      「海」と「くるぶし」に因んで、苑子の好きな北原白秋の詩を書き出してみた。

                                      掲句は、白秋の詩の如き夕陽の照らす「海へ」、「影法師」だけを残して去って行ってしまったのだ。痛々しく丸い「くるぶし」を赤く染めて。

                                      「くるぶし」=踝の〈果〉は、丸いくだものの実が木になっている樣を描いた象形文字のことであり、「くるぶし」が丸い形の骨であるため、〈足〉+〈果〉で〈踝〉となった。私は、足の果てだと思っていたのだが…。「くるぶし」は足首の外側に出ているので、夕陽をより受けて「赤き」とする物理的な読みにもなるが、「くるぶし」という足首に付随する部位は、足袋や靴下類で隠す部分であるせいか、足首とともに艶を持つ響きがある。

                                      針供養女の齢くるぶしに    石川桂郞 
                                      くるぶしの露けき頃となっており    川崎展宏 
                                      うつくしき踝をもつ秋の霊       宮入聖 
                                      くるぶし痛しむかし山には羽ありき   阿部完市 
                                      旅人のふと日野の穢のくるぶしか    安井浩司 
                                      くるぶしのすとんと暮れし神集い    攝津幸彦 
                                      くるぶしに日暮れを寄せて麦を踏む   黛執 
                                      実朝忌くるぶしに来る地の冷      鍵和田秞子 
                                      くるぶしの砂におぼるる浜豌豆     片山由美子 
                                      くるぶしの際ぬけてゆく春の水     桂信子

                                      「くるぶし・踝」の句を拾ってみた。男女の俳人ともに女の「くるぶし・踝」とおぼしき句が多い。
                                      石川桂郞の「針供養」や川崎展宏の「露」は、慎ましやかな女を思わせ、宮入聖の「うつくしき」と「秋の霊」に、若々しく清潔なエロスを見る。阿部完市は、自分のくるぶしの痛さから民話性を呼び、安井浩司の「穢のくるぶし」が女のものであるのなら、その意味に慄然とする。攝津幸彦の「暮れし」が必ずしも日暮れの時刻を表現していないとしても、「くるぶし・踝」は、黛執や苑子の句のように日暮れ時を連想させるものもある。日暮れ時は、人にもの思わせる時間であるのかも知れない。

                                      女性俳人の句は、それぞれ水辺が舞台の作品である。水辺で足袋や靴下を脱ぎ、足を水に浸したり、砂浜を歩いている様が「実朝忌」や「浜豌豆」、「春の水」の季語と相俟って、「くるぶし」が自身の心であるように水や砂との交感の機微が繊細に表現されている。

                                      桂信子の句は、句集『初夏』(昭和52年刊行)所収の作品である。昭和48年秋~49年と記述があるので、信子が58、9歳のものである。「際ぬけてゆく」の表現に信子の諦念が透ける。「くるぶし」というたわわに実った足の骨の際をすりぬけてゆく水は、ものみな生き生きとし始める「春の水」である。春光に輝く水が春の愁いを纏った信子をかわしていくようである。直情から洩れるその詩に、ある種の艶めかしさは確かにあるが、明るい「春の水」なだけに、憂いを覚える。句集は編年体のため、各章にタイトルをあしらった句集のようなイメージで括れないが、48年秋~49年の1年半だけの句の中には、寂寥感の滲み出る句や、ときには、緊迫感を伴うような句もある。

                                      毒茸を掘って真昼の日にさらす   信子『初夏』昭和52年
                                      相模野の春暮になじむとりけもの       〃  〃
                                      濁り声に身をとりまいて大根焚        〃  〃
                                      春の土荒れて筋引く竹箒           〃  〃
                                      総毛だつ紙の手ざわり春の暮        〃  〃
                                      惜春の竹の幹うつ石つぶて         〃  〃
                                      ここに掲げた句が、390句にも及ぶ句集全体を貫いている訳では決してないので、誤解のないように読んで頂きたいのだが、〈くるぶしの際ぬけてゆく春の水〉の私の鑑賞に至った理由として掲げたまでである。

                                      「人生は女の日記じゃない。」と言ったのは、サガンの小説『ブラームスはお好き』に登場する青年シモンであるが、(年の差を気にして身を引こうとしたポール(39歳)に言ったシモン(25歳)の言葉である。)編年体の句集とは、微妙な心の動きが日記のように見えてしまうことを識った。『水妖詞館』のような、各章にタイトルを付けてまとめた句集は、映画を編集するように、作句時期の前後を考えず各章ごとにイメージを展開すれば良いので、時間経過に伴う心理状況は解らない。

                                      桂信子は、大阪出身で(大正3年生まれ・平成16年沒90歳)、20歳から90歳までの70年間を俳句とともに生きた、まさに人生が俳句の人であった。昭和13年から「旗艦」に投句。日野草城に師事し、同人になる。その後、「まるめろ」「太陽系」「青玄」を経て、45年に「草苑」を主宰。

                                      平成19年、私が所属誌『LOTUS』9号に書いた随筆「エロテイシズムのかたち―『女身』桂信子―」の一部分を抜粋する。

                                      いつの世も朧のなかに水の音   桂信子 
                                      嘗て『女性俳句』という超結社の俳誌が存在した(1954~1999年)。此の句は、終刊号に全会員が一人一句発表した際の作品である。 
                                      少年美し雪夜の火事に昂ぶりて  中村苑子 
                                      秋刀魚焼く煙の中の割烹着    鈴木真砂女 
                                      苑子や真砂女は独自の俳句性を表現した作品を載せているが、信子の作品には『女性俳句』創刊に関わってから、終刊に至るまでの思いの込められた句のように感じられる。亡くなる10年前の作品ではあるが、永きに亘る俳句人生の中でのひとつの終幕への感慨がこの作品を通して伝わってくる。移り変わる朧なる世にひとつの生命を育む水の音を聴いて自分は生きてきたのだと―。強く静かに鳴り響く水の音は果たして信子自身であるのかも知れない。(中略)1995年の『女性俳句』65号〈湧泉集〉の「強霜」に私は強く引き付けられた。 
                                      寒暁や生きてゐし声身を出づる 
                                      人小さく凍てて地の揺れ思ふまま 
                                      とこしえに地球はありや寒星座 
                                      地震あとの春待つ顔をあげにけり 
                                      人間を笑うて山の覚めにけり 
                                      此の5句を含む阪神・淡路大震災に基づくと思われる15句を発表している。桂信子を語る時、有名無名を問わず人は、誠実で潔癖であると言う。この句群を目にした時は、まさしく誠実と潔癖を感知した。先に掲げた『女性俳句』終刊号の1句を読んだ時も同じ思いであった。いつの時代も常に真摯に物事を女身ひとつで受けとめ、熟知し、自然や人間を悲しみ、慈しむ、従来の感性が句作を重ね、より研ぎ澄まされ生き抜いた俳人であると私は確信する。(後略)

                                      信子は、私が折りに触れ書き記している「女性俳句」の8人の発起人の一人であり、長きに亘り女性俳人のために貢献した中心人物であった。(大会でお会いした印象はいつも穏やかな笑顔であった。)平成23年の東日本大震災の時、信子は彼の世の人になっていたけれども、今も天上で鎮魂句を詠み続けているような気がしてならない。

                                      苑子は、信子と同世代であり、親しくしていたが、高柳重信は苑子よりもずっと以前に信子と交流していた。『桂信子句集』(昭和58年立風書房発行)の栞「桂信子句集ノート」の重信の文章「若き日に」の最後の部分を引く。(この『桂信子句集』は6月15日発行であり、同年7月8日に重信は亡くなった。)

                                      (前略)その頃(昭和十六年)の桂には 
                                      夫逝きぬちちはは遠く知り給はず 
                                      という句があるが、これを読むたびに私は涙ぐましい思いでいっぱいになる。また、桂信子のことを考えるたびに、なぜか私は、この作品を真先に思い浮かべるのである。
                                      それから、四十数年が過ぎてしまった現在、たぶん桂や伊丹や私にも、それぞれ大きく変貌を遂げているところと、少しも変化していないところがあるに違いない。だが、いまなお、過ぎし日の健気さを殆んど失わずにいるのは、おそらく桂信子であろう。その健気さこそ新興俳句の心意気と思う私にとって、いま桂信子の健在は心の支えの一つでもある。

                                      同じ栞の飯田龍太の「桂信子さんのこと」の冒頭を引く。

                                      結論を先に言ってしまえば、桂信子さんは、俳句に対する識見、あるいはそれを裏から支える実作に対する情念のありように於いて、現代女流俳人の第一人者であると、私は確信している。 
                                      いや、私の見識などと、改めて見栄を切ることもないだろう。いま、俳壇おお方の良識は、そこに帰着するように思われる。(後略)

                                      藤木清子や橋本多佳子らとも交流し、彼女らの残したものを胸に抱きつつ、日野草城、山口誓子を継承しつつ、独自の女性としての俳句を、その人生を懸けて詠い続けてきた信子の姿勢は、誰もが認めるところである。結婚2年後の昭和16年(26歳)、夫を亡くしてから永きに亘る句業の間に、幾多の句友を見送って来た。書き綴る晩年の句には、微妙な心情が語られている。

                                      忘年や身ほとりのものすべて塵  信子『樹影』平成 2年(76歳) 
                                      死ぬことの怖くて吹きぬ春の笛  〃 『花影』平成 7年(81歳) 
                                      元日や如何なる時も松は松   〃 『草影』平成15年(90歳)

                                      1、2句目の心情の後、新年を迎えた信子の3句目のゆるぎない決意は、一貫して歩んだ自身の俳句人生を物語るにふさわしい、厳しくも格調高い一句である。そのゆるがぬ俳句への思いを貫く為に捨てたものもあったであろう。昭和22年(32歳)の次の句を見ても一生を一人で過ごした女人の姿として哀切の感に堪えない。

                                      雛の灯に近く独りの影法師    信子『月光抄』昭和24年
                                      女一人の「影法師」は、女身の実体そのものよりも昏く悲し気である。今回の苑子句の「影法師」も一人の女の不幸を物語っているかのようである。顕になった「くるぶし」のように、女人の「影法師」の真実の暗さは夕陽にありありと照らし出されるのである。前回の〈47.はるばると島を発ちゆく花盥〉で私がこだわった佐渡情話のお弁の「くるぶし」と「影法師」も思い浮かんでくる。水辺に残された女達の「くるぶし」と「影法師」を今宵も細波が揺らすであろう。 

                                      ひとり臥(ね)てちちろと闇をおなじうす  信子『女身』 
                                      桃の宿ひとり遊びの影踊る        苑子『吟遊』  




                                      50 澪標(みをつくし)身を尽くしたる泣きぼくろ

                                      掲句について苑子自身が自註している文章がある。(『現代女流俳句全集第四巻』昭和56年講談社所収)

                                      いささか甘くて気恥ずかしいこの句が、どうしてか男の人に好まれている。 
                                      ある日、横須賀の港で浮標(ブイ)を見ていた。頭を赤く塗ったコンクリートの巨大なものだったが、浮標(ブイ)という文字の関連から澪標(みをつくし)という音が必然的に「身を尽し」と心に入ってきた。 
                                      目の前の浮標(ブイ)から解かれて港を出てゆく船もあれば、入港して浮標(ブイ)に繋がれる船もある。その船で働いているおおかたの船乗りたちは家に妻を残してきているであろうし、実際に見送りに来て何か荷物を渡している女の人の姿も見えた。そんな風景を眺めているうちに、ひとりの男に全身全霊を捧げて尽す、おとなしく優しい女の姿が浮かびあがり、いったん船出したら、いつ帰るかも判らない男を待ち続けて、何ごとにも耐えて淋しく暮らしている女を表現するのに「泣きぼくろ」という名詞が泛んだ。こうした女は、いまは幻の存在でしかないであろうし、それ故に男の人たちは、ひたすら渇仰するのであろう。

                                      「澪標」は「身を尽くし」にかけて和歌で多く詠われている。万葉集には「遠(とおつ)江(おうみ)引(いな)左(さ)細江の澪標吾を頼めてあさましものを」などもある。冒頭で「いささか気恥ずかしいこの句」と本人が語っている通りであるが、最後の一行の「こうした女は、いまは幻の存在でしかないであろうし、それ故に男の人たちは、ひたすら渇仰するのであろう。」に妙に納得してしまうのである。

                                      泣きぼくろ彼女もちけりけふの月   山口青邨 
                                      石竹の美少女なりし泣きぼくろ   倉橋羊村

                                      「泣きぼくろ」は、今や男が〝ひたすら渇仰する〟女に似合う。青邨や羊村の若き時代はそうした女が存在していたのだろう。(羊村句の「石竹」は撫子のことである。)

                                      けれども、「泣きぼくろ」がなくとも「身を尽くしたる」女は現存しているのではなかろうか。10年程前までは、そんな女流俳人が確かに存在していたのだ。鈴木真砂女(明治39年生まれ・平成15年没96歳)は、その波瀾万丈なる人生が、小説や芝居にもなっているが、真砂女のその人生の折り折りの女の俳句を苑子の掲句に重ねてしまうのである。

                                      真砂女は、千葉鴨川の有名旅館の三姉妹の末娘に生まれ、結婚後夫が失踪し、家に戻るが、亡くなった姉の替りに家の為に義兄と結婚する。30歳の時、7歳年下の海軍将校と恋に落ち、50歳で家を飛び出し、銀座にて小料理屋「卯波」を営みながら俳句を書き続けた。俳句は亡くなった姉の影響で作り始め、大場白水郎主宰の「縷紅」に投句。戦後「春燈」で久保田万太郎、安住敦に師事。昭和29年創刊の「女性俳句」の発起人の一人でもある。

                                      平成4年(私は平成2年から俳句を始めている。)銀座「卯波」の暖簾を初めてくぐった。会社の先輩が句会を体験したいからと、編集者の友人に勧められ、予約をしてしまったのである。私は断わり切れず、先輩達と句会らしきものを始めた。(2、30代の女性ばかり5、6人で、俳句を習っているのは私と石原八束の教室へ通っていた同僚の2人だけであった。)そこへ真砂女が現われ、「どちらの結社の方達?」と尋ね、私は冷や汗をかきながら「中村苑子先生のところで勉強しています。」と答えると、「まあ、苑子さんならよく知っているわよ。」と笑顔で仕事に戻って行った。暫くすると、真砂女は、赤ペンを持ってきて一人一人の句に添削をしてくれたのである。私の拙句、

                                      父の忌や春暁いまだ暗くあり   広美(毬子)

                                      の下五を「明けやらず」と修した。苑子も同じように修したと記憶している。(その「卯波」での稿を大切にしていたのだが、その他、窓秋の扇子や苑子と食事した折りに書いて頂いた2枚のコースター等々、俳句関連のものが家に泥棒が入り、盗まれてしまい、本当に残念でならない。)後日、私がその「卯波句会」の事を話した先輩に皆に言ってはいけないと言われたが、苑子にだけは謝りながら、恐る恐る話すと、「先に言ってくれれば、真砂女に話しておいたのに。」と残念がっていただけで、事なきを得た。苑子と真砂女は、「春燈」で8年間共に学んだ句友であった。それから、2、3年後、苑子や先輩達と「卯波」へ食事に行った際、(夏だったからか、真砂女は御手製の紺地に白の水玉のワンピースを着ていて、少女のようであった。)一番端の席を指して、苑子が言った。「ここが例の人の定席だったのよ。」と。

                                      羅や人悲します恋をして       真砂女『生簀籠』昭和30年
                                      罪障の深き寒紅濃かりけり       〃   〃 
                                      女体冷ゆ仕入れし魚のそれよりも   〃 『夕螢』昭和51年 
                                      水さびし空もさびしと通し鴨       〃  『都鳥』平成6年 
                                      死なうかと囁かれしは螢の夜      〃   〃 
                                      人を泣かせ己も泣いて曼珠沙華    〃 『紫木蓮』平成10年

                                      これらの作品を読む時、不倫という一言で片付けてしまえない時間の重さを感じる。泣きながら仕事をしながら俳句を書くことで自身を慰めてきたのだろう。けれどもその悲哀を綴るほど悲しみが募っていったのではないだろうか。

                                       ―さる人の死を悼む―
                                      かくれ喪にあやめは花を落としけり      『居待月』昭和61年
                                      忌七たび七たび踏みぬ櫻蘂            〃

                                      掲句は、昭和61年の句集『居待月』である。「かくれ喪」に泣き、咲き散らした花の「蘂」を踏みながら、毎年一人で愛しい人の忌日に手を合わせたのであろう。句集『紫木蓮』は、平成10年(92歳)刊行であるが、〈人を泣かせ―〉の他に〈酒強く無口な人の墓洗う〉の句もあり、30歳で恋に落ちてから、96歳で亡くなるまで、60年以上(その人が亡くなってからも)愛し続けていたのではないかと思うといじらしいばかりである。

                                      夏草や一途というは美しく           『夏帯』昭和43年

                                      この句に書かれている「一途」を貫き通した訳である。冒頭で苑子の語っている文章に登場する船乗りの妻のような真砂女は、海軍将校であった亡き人のいる彼の世に旅発ったのだ。

                                      源氏物語の「澪標」の巻は、源氏28歳から29歳の1年余りである。海辺で生まれ育った真砂女は、通行する船に通りやすい深い水脈を知らせる「澪標」の如く、その生涯を懸けて一人の男に「身を尽くしたる」女であった。苑子もまた(25年間ではあったが)、後半生「身を尽くしたる」覚悟であったが故に、今回のこの句を詠んだのではないかと私には思えてくるのである。

                                      その昔の「春燈」姉妹は、故郷を出てから戻ることなく、東京の地で愛する男と俳句に身を尽くし切った人生であった。

                                      ふるさとの蔵にわが雛泣きをらむ     真砂女『紫木蓮』 
                                      振り向けばふるさと白く夕霰        苑子 『花隠れ』


                                      51 人妻に春の喇叭が遠く鳴る

                                      20年近く前に苑子から掲句について質問を受けたことがある。

                                      「今の若い人はこの句をどういう風にとらえるのかしら?」私は、「人妻の経験のない私ですが、人妻となりそれなりの倖せな生活を送っているこの句の女性が、春のある日、呆けた喇叭の音を聴いていると、遠く置き忘れたもう戻ることのない青春の甘く熱い日々を思い出す、ノスタルジー的な詩を感じます。」と答えたが、彼女は微笑んで聴いているだけであった。

                                      高橋睦郎の「中村苑子二十句恣解」(『鑑賞女性俳句の世界第3巻』平成2年角川学芸出版所収)に、この句についての文章がある。

                                      人妻とはどれほどの年齢をさすか。年齢よりも結婚以来の歳月。花嫁や若妻よりは時が経過しているが、まだ人の妻になったという匂いが残っている。人を夫と言い換えれば、心身ともに夫と馴染んで来た頃あいをいうといっていいのではないか。その人妻に春の喇叭が鳴る。喇叭は豆腐屋の喇叭でも、吹奏楽の喇叭でもいいが、ここはやはり軍隊の進軍喇叭と考えたい。 
                                      春眠暁を覚えず、夫はまだ床の中にある。妻はすでに起きて、飯を炊き汁の実を刻んでいる。その幸福を嫉むかのように喇叭が鳴り、夫を戦争に拉致しようとする。妻はその音を夫に聞かせたくないが、けっきょく夫は聞くだろう。聞いて軍隊の拉致に委せるだろう。男は平安な時間が破られることをどこかで望んでいる。それもまた男の性の真実であるだろう。遠い喇叭はたちまち近くなる。

                                      戦争を知らない世代の私にとって、「軍隊の進軍喇叭」とは、思いもよらなかったが、苑子が佐渡出身の新聞記者と結婚したのは、昭和7年(20歳)のことであるから、その見解が案外当たっているのかも知れない。苑子の夫は、昭和19年に報道班員として派遣されていたフィリピンで戦死している。苑子は「私の内部で以来、戦争は終りを告げない。」と語っている。

                                      苑子の夫は帰らぬ人となってしまったが、苑子のように愛する人が戦地から帰るのを待っていた女流俳人がいた。

                                      細見綾子である。

                                      帰り来し命美し秋日の中    綾子『冬薔薇』昭和27年

                                      昭和22年に、夫となる12歳年下の俳人沢木欣一が戦地より無事帰還した折りの句である。

                                      冬薔薇(そうび)日の金色(こんじき)を分ちくるゝ    『冬薔薇』(昭和21年作)
                                        十一月沢木欣一と結婚
                                      見得るだけの鶏頭の紅うべなへり            〃 (昭和22年作)

                                      細見綾子(明治40年生まれ・平成9年没90歳)は、兵庫県出身で東京の大学卒業後結婚するが、2年後夫は結核にかかり病没し、ふるさとへ帰るが肋膜炎を発病し、その頃(昭和4年・23歳)から松尾青々主宰の「倦(けん)鳥(ちょう)」に投句し始める。32歳頃まで療養しながら俳句を作り続け、ようやく健康を回復した。昭和21年、沢木欣一が創刊した「風」に同人参加。翌年欣一と結婚。 

                                      ひし餅のひし形は誰の思ひなる     綾子『桃は八重』昭和17年 
                                      ふだん着でふだんの心桃の花           〃       〃

                                      1句目の(療養中であると思えるが)その素直な観点の不思議さは詩人の目なのだろう。2句目は、綾子が健康を回復した頃の作品である。初期の有名な作品であり、細見綾子を語る時、この作品にその人柄が表われていると言われている。綾子は20代を療養生活で過ごしたが、ふるさと丹波の自然と、静養地、大阪での俳句交友が健やかな身体と生来の素直な詩精神を育くんだのであろう。70年近い俳句人生の中で多くの句集を残し、随筆も数多く執筆している。昭和29年創刊の「女性俳句」の発起人の一人としても名を連ねている。

                                      縦横無尽の中の一点秋日吾等     『冬薔薇』昭和27年 
                                      白木槿櫻児も空を見ることあり       〃

                                      前回〈48.はるばると島を発ちゆく花盥〉で俳人同志の夫婦について加藤知世子と横山房子について述べたが、綾子もまた50年間を俳人の夫と共に過ごしている。が、2人のように夫と表記された句が(私が調べたところ)見受けられないようだ。だからといって、12歳もの年の差を超えた大恋愛は、欣一の小説「踏切」や綾子の随筆「晩秋」(『私の歳時記』昭和34年風発行所)等で周知のことである。掲句の「吾等」は、欣一と綾子であり、40代で授かった子供との毎日は未知なる幸福であっただろう。

                                      しかし、私には綾子は、妻として蔭、日向で欣一を支えた女流俳人というよりも、自然に寄り添い溶け込みながら自然を崇拝する俳人で、自然も夫も同等に愛したという印象が強い。

                                      鶏頭を三尺離れもの思ふ     『冬薔薇』

                                      高柳重信がこの句について述べている。

                                      なるほど、対象と自分との間が三尺という距離は、物思うのに、まさに不可欠の距離というべきで、それを感得した彼女は天性の詩人だ。

                                      綾子自身の自註もある。

                                      鶏頭と自分との距離が三尺だと思ったとき、何もかもが急にはっきりするように感じた。その時、何を思っていたのか、言われても言い証しは出来ないが、鶏頭へ三尺の距離で私は色んな事を考えた。三尺は如何ともし難い距離だと思えたのである。

                                      そして、自然を視つめる眼差から、その生死や輪廻を更に深い思惟へ至り、涅槃や仏像の句々を生み出す。

                                      仏見て失はぬ間に桃喰めり     『技藝天』昭和49年 
                                      女身仏に春剝落のつづきをり      〃 
                                      貝殻に溜れる雨も涅槃かな      『存問』昭和61年

                                      自然に洗われた心身が仏像を拝顔することで、より洗い清められ、柔かな境地へと辿り着く。1句目は、苑子が好きな句であった。苑子も仏像が好きで各地を旅してはその地の仏像を拝顔して廻ったと聴いている。私は苑子からこの句を教わった。

                                      私は冒頭で記したように、20年前、今回の句を苑子の若き(新聞記者の夫と生活していた)頃の人妻の句ととらえていた。句の解釈は変わらないけれども、今では、重信の妻(籍は入れていないが)としての句であっても、どちらにしても「人妻」の懐旧の念を詠っているのだと思っている。綾子に「人妻に」と上五を与えたら何と詠むであろうか。10歳以上もの年の差を超えて愛を貫いた綾子と苑子は、夫にとって、ある時は母であり、ある時は仏像のように微笑み、風通しの良い距離を保ちながら、自身は、俳句という曼陀羅を描いていったのである。

                                      曼陀羅の地獄極楽しぐれたり    綾子『存問』 
                                      落花舞ふ渓の無明や水明り     苑子『花隠れ』


                                      52 夕べ著莪見下ろされゐて露こぼす


                                      ひとづまにきざはしはある著莪(しやが)の花     大西泰世

                                      前句の「ひとづま」に因んで引いてみた「著莪の花」の句は、昭和24年生まれの川柳作歌大西泰世の作である。「著莪の花」は、6月の梅雨時、陰地に群生する花である故か、その花の地味な様子のせいか、昔から明朗風には詠まれていないようだ。

                                      花著莪に涙かくさず泣きにけり     長谷川かな女 
                                      ほどほどの昏さがよけれ著莪の花   今井つる女 
                                      華やかに女あはれや著莪の花     阿部みどり女

                                      かな女、つる女の句は、著莪の持つ白く涼しくも静かな陰鬱を湛える風情が描かれているが、みどり女の句は、泰世の句のイメージと共通するところがある。苑子の句の「見下ろされゐて」の著莪(もしくは本人)の位置に対して、泰世の句は、「きざはし」という、上から見下ろし、下から見下ろされ、同等の位置に立つこともできるものを句に置いている。苑子句の主体が(著莪に喩えられた)女だとすると、泰世句の「きざはし」の位置が苑子句と同じ位置であるともないとも断定できない表記が、「ひとづま」という女に多種多様の意味を展開させ、「著莪の花」の持つ表裏を表現している。みどり女の「華やかに女あはれや」も、泰世の曖昧さを含ませた詩的浮遊感とは異なる形ではあるが、「著莪の花」の持つ陽と陰を五七五にはっきりと提示しているのである。

                                      阿部みどり女は、北海道生まれ(明治19年生まれ・昭和55年没93歳)で、明治43年に結婚するが、結核のため鎌倉で療養し、俳句を始める。大正元年虚子に師事。「ホトトギス」で5年に婦人俳句会が始まり、かな女、淡路女らと活躍。昭和7年「駒草」創刊主宰。19年、仙台に移住し、30年余りを過ごす。

                                      葉柳に舟おさへ乗る女達      みどり女    『笹鳴き』昭和22年 
                                      物言はぬ獨りが易し胡瓜もみ      〃     『微風』昭和30年 
                                      枝豆がしんから青い獺祭忌            『光陰』昭和34年 
                                      絶対は死のほかはなし蟬陀仏      〃    『雪嶺』昭和46年 
                                      ゝゝと芽を出す畑賢治の忌         〃    『石蕗』昭和57年

                                      みどり女についての逸話を知る由もないが、これらの作品を引きながら何と俳句に向いている人かと思った。迷いのない言葉が清々しく、そして時には諧謔を合わせ持ち、名を伏せたら男性の若手現代俳人と見紛うような作品もある。1句目の「女達」の華やかな揺れる動きを見る目は、男性の眼差のような客観性がある。先に掲げた「著莪の花」の句もそういった目線から見ることもできよう。


                                      ひとづまにゑんどうやはらかく煮えぬ     桂信子 
                                      そら豆はまことに青き味したり         細見綾子

                                      みどり女の3句目は、「獺祭忌」が主体だとしても、台所に立って同じ豆類を茹でる信子や綾子の句とは全く違う趣きのある芯の太い堂々とした句である。2句目の台所句、「胡瓜もみ」にもまた彼女の気質が表われているようである。そして、4句目はみどり女85歳刊行の所収句だが、益々削ぎ落とされた言い切りが自己の晩年の俳句へと結晶されていく姿であろう。作句時期も、どの句集所収かも解らないのだが〈海底のごとく八月の空があり〉という句も現代俳句に適う新鮮さを持っている。


                                      みどり女の女性性が表現された句を探してみた。


                                      打ちあけしあとの淋しさ水馬     『笹鳴き』昭和22年 
                                      秋の蝶山に私を置き去りぬ     『微風』 昭和30年 
                                      うすものに透くものもなき袂かな    〃 
                                      胸すぐるとき双蝶の匂ひけり     『雪嶺』昭和46年

                                      1、2句目はストレートな表現が初々しさをも感じるが、(これも若手現代女流俳人風の作品である。)3句目の叙述に女を見るが、「うすもの」の語は、男女俳人ともに透けていることを艶とした女体の有様を表現する作品が多い中、「透くものもなき袂」と言ったところにより儚い女性性が滲み出ている。4句目の「すぐるとき」もそこはかとない熱情への名残りを漂わせている。


                                      苑子の今回の句に共通するものを見出すとすれば、3句目の「うすものに」の句であろうか。著莪は花が咲いても種子ができない代わりに、地下の根茎が伸びて群生する。そのためか、花言葉は〝友人が多い〟だが、なぜか〝反抗〟という花言葉も持つ。梅雨時の山地や軒下に咲き、アヤメにも似ているが、姿や咲く場所が地味な著莪の花は、晴天で見るよりも、そぼ降る雨の中、白い花片が透き通り雨露をこぼす姿は、儚く美しい。紫陽花のように人目を引く華やかさに、薄い花片を震わせて微かに〝反抗〟しているようでもある。私は初学時代、晴れた日の著莪の花を詠んだ拙句に、苑子から「著莪はそういう花ではありません。」とはっきりと言われたことがあるのを(晴天の著莪に問題があるのではなく、私の句が著莪を言い得ていなかったのである。)この句を読む度に思い出す。苑子にとって「著莪」は、見下ろされながら美しさが透ける花(女)であり、みどり女は、女の「華やか」さには「あはれ」があると「著莪の花」に喩えて詠う。


                                      泰山木乳張るごとくふくらめる      『石蕗』昭和57年

                                      93歳で亡くなったみどり女の遺句集所収のこの句には、重厚で健やかな華やかさを纏う女の姿がありありと浮かんでくる。女の「あはれ」も「華やか」さも知り抜いたみどり女は、地に侍る著莪の花のような女達へ大空を仰ぐ「泰山木」を大らかに詠いあげ、女の讃歌を叫んでいるかの如き風情である。


                                      苑子の今回の4句は、女性の嫋やかさを詠う句々であった。


                                      23. 羽が降る嘆きつつ樹に登るとき


                                      から始まった第2章「回帰」の終句は嘆くことをやめ、見下ろされながらも、泣いているかのように見えながらも、透き通る花片を静かに滴らして反抗しているのであろうか。

                                      命より俳諧重し蝶を待つ          みどり女『月下美人』 
                                      俳句とは業余のすさび木の葉髪     苑子 『四季物語』

                                      次回から、第3章「父母の景」を繙いて、苑子俳句の源を探っていきたいと思う。