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2014年7月11日金曜日

我が時代――戦後俳句の私的風景 7 筑紫磐井

十時海彦(5)

十時海彦を例に、青年・20代作家がどのように登場し、消えていったかを検証してみた。現在の青年作家の参考にもなると思うからだ。

その後、十時は有馬朗人主宰の「天為」(平成2年(1990)9月創刊)の創刊に参加する(発行所をやっていた記憶がある)が、14年間のブランク、42歳の再出発は、「失われた10年」といわねばならないだろう。彼のキャリアや実力からいえば、正木ゆう子や中原道夫、鎌倉佐弓に先んじて句集が出ていてもおかしくなかったと思うが、いまだに彼の句集は見ることができない。このささやかなブログの記事に乗る作品ぐらいが唯一の成果と言えようか。

ある哲学者は「あらゆるものはそれの適時を持っている。」と言っているが、「沖」青年・20代作家十時海彦が失ってしまったものは大きいといわねばなるまい(その後、一時、彼が吉田利徳主宰の「航標」に参加していた記憶があるが、その能力が十分に生かされた環境にあったはいえないようである、才能にはそれがふさわしい場というものもあるのだ)。

十時と私が会った回数はそれほど多くはない。沖に在籍中は数回ではなかったか。かえって、沖をやめてしまった後の方が付き合いが深くなった。今この記録を書きながらふっと思い出すことがある、48年末に初めて沖の句会に出た時隣に正木ゆう子が坐ったことは既に述べたが、次の句会には十時も来ていて、

バスに弾む林檎のような少女たち 十時海彦

の句を出して最高点を取っていた記憶がある。私も正木もその回もやはりほとんど点が入らなかったのだが。またこの時十時にひっぱられて、東大俳句会の後輩西村英俊(卒業後通商産業省に入省する)が初めて出席しており、「がにあ!」と叫んでいた。以後、長い付き合いになる西村我尼吾との出会いである。

また当時俳壇の人気者となっていた福永耕二(「沖」同人兼「馬酔木」編集長)の指導する20代研究会に出ると、十時が耕二と対等な口ぶりで議論し、十時に自分の句を批判された耕二ががっかりしていた記憶があるから、如何に口八丁の論客であったことがよく分かるであろう。十時はこんな句は甘いと言って取らなかった。

幼友ひとりが逝けり青林檎 福永耕二
まあ、「バスに弾む」と似たような句であるのだが。いずれにしろ、41年前の些細な出来事である。しかしそれが積み重なってゆくうちに、ある時はそれが歴史となり、英雄談となってゆく。日常の積み重なりが歴史となってゆくことを、その当時は誰も感じていなかったが、間違いなく歴史は些事から作られてゆく。おそらく、

鶏頭の十四五本もありぬべし   正岡子規
降る雪や明治は遠くなりにけり  中村草田男
は、作者たちもこうした句が後世に残る名句になるとは思っていなかったに違いない。その意味では現在も歴史が作られつつあるのかもしれない。

十時の俳句を歴史といってよいのかどうか疑問もあるが、何年か前に、「天為」の句会で、有馬朗人氏が、十時の次の句を上げて傑作としていたことがあった。実に30年以上前の句であったから、それが記憶で伝わってゆくということで、「天為」では歴史であったのだろう。

雁行や波の下にも幾山河

次回からは少し趣を変えた歴史を眺めてみたい。


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