十時海彦が当時の「沖」の花形であったことは既に前回述べた通りである。49年度の「特集・沖の20代」には次のような作品を発表しているが、今回の俳句は、それまでの俳句とは全く違う(当然48年の特集とも違う)、切字だらけの俳句であり、従来の「沖」風に対して全く対抗するものであった。その意味ではけれん味たっぷりの、野心的な作品であったということができる。
白椿
十時海彦
白椿この世の雨を溜めにけり
春暁や雲も瀬をなす奥吉野
雨風に堪ふるすがたの柳かな
蘆の芽にこの世の水の広さかな
鮎釣に山影移りゐたりけり
三寸の徹頭徹尾百足虫なり
襖絵の山河を流るる蚊遣かな
花火師も終の花火は見上げけり
風連れて風鈴売の通りけり
蓮咲きて坐るに痛き花弁かな
ちなみに、昨年以上に「沖」風があふれていたこの年の「特集・沖の20代」作品では、十時海彦の切字だらけの俳句はあまり評価が高くなかった。沖の主要同人による誌上句会では、ほとんど点が集まっていない。例えば上品ではあるが「花火師も終の花火は見上げけり」は川柳に近いと見えたかもしれない。切字を入れてしまうと、それ以外の風景・景物がすべて常套的に見えてきてしまうことが分かるのである。いわゆる「2句1章」にならないのが、沖のイメージ俳句の問題であった。その意味では、貴重な失敗であった。
補足的情報を。十時海彦は東大俳句会に属していたが、当時の東大俳句会は、工学部造船学科助教授小佐田哲男氏の指導の下で「原生林」という雑誌を持っていた。同誌編集長であった西村我尼吾の話によると、多くの精鋭を擁した東大俳句会は、会員を「沖」や「鷹」など俳壇の主要雑誌に割り当てて活動させ、全俳壇制覇を狙っていたらしい。如何にも東大らしい発想だ。そして、その中で「沖」に割り当てられたのが十時海彦だったという。
東大俳句会のこの戦略は成功したのかどうか。東大俳句会系の人は多く現在は「天為」に集中してしまったから、俳壇の一角は占めるものの、主要結社の主宰者、編集長のあらかたが東大俳句会出身であるというような全俳壇制覇の野望までは達成できていないようである。「天為」以外では一匹狼となってしまった人が多く、東大俳句会としての結集力も持っていないようだ。だいたい、戦後生まれ世代の脚光を浴びる俳人の中に東大俳句会系の作家の割合も決して多くはないのがそのいい証拠である。全俳壇制覇の野望は潰えたといってよいかもしれない。これは、実業界や官界で通用した東大システムがもはや戦後俳壇で通用しないということも意味している(戦前の4S時代の秋桜子・誓子・素十・青邨・風生、人間探究派時代の草田男までは通用していたのだからこれはすごいといえよう)。
それでも、俳句甲子園での優勝を争う開成高校よりは、戦略性に富み、スケールが大きかったという点で評価はできるだろう。最近の東大俳句会よりは、早稲田俳句会の方が多少ともこうした戦略性を見せているといってよいかもしれない。
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