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2014年6月13日金曜日

【竹岡一郎作品 No.16】  (俳句小説)   セーラー服特急あじあ号孕む   竹岡一郎



(俳句小説)   セーラー服特急あじあ号孕む   竹岡一郎

今捨てたあなたの火は消えてない

こんな標語の小さな看板が、住宅街の、とあるブロック塀に貼り付けてある。それは煙草のポイ捨てを戒める看板なのだが、長い年月の果てに、「火」の赤い一文字がほとんど消えている。いつか耐えられなくなったときに、悪戯書きをしようと思っていたのだが、いつも赤いマジックペンを持っていなかった。

或る夜、橋を渡る。橋の真ん中まで来ると、大きな黒い鞄を肩から掛けた中学生くらいの少年が、橋の欄干に凭れて、ぼんやり川面を見ている。

少年の肩がギシギシ鳴っているのが聞こえるが、当の少年に、その音は決して聞こえない筈だ。聞こえないから、まだ生きて川面を見ている。

あの黒い肩掛け鞄に詰まっているのは、賭けても良い、ノートと参考書と問題集がぎっしり、辞書は少なくとも三冊、和英、英和、国語辞典。肩掛け鞄と一体になった少年は、鞄を降ろすことも思いつかないようなので、私は話しかけてみる。

「死にたいか」

少年はちらりとこちらを見て、すぐに川面に眼を戻す。

「おっさん、わかったような口きくなよ」

「何で死にたい」

「うるさいな。疲れたから。…… みんな、一番になれって言う」

「友達もか」

「そんなもん、あるかよ。大人の幻想だ」

「いるわけねえだろ、クソ中年」

「いいこと教えてやる」

「いいことなんて、この世にあるもんか」

「お前に一番になれって言う奴らはな、一番になった事が一度もないんだ。自分のダメ具合を隠したくて、お前に一番になれって言う」

「でも、みんな大人で、僕より強い。殴られたら、体を固くしてやり過ごすしかない。向こうは大人で、金もある。僕には自由になる金なんてない」

そうだな、としか言いようがない。

「この世は暴力と金で出来てるって、小学生でも知ってる。だから、この鞄に詰まってるのは、僕の将来の暴力と金。言っとくけど、愛とか平和とか言ったら、刺すよ」

「捨てちまえ」私は少年の鞄を指す。

「言ったろ。大事な将来」

「将来なんかじゃない。お前に一番になれって言う奴らの呪いだ。川に流しちまえ」

少年の顔が赤黒くなる。良い顔だ。呪いが噴き出そうとする顔。少年は欄干に鞄を置く。少年の肩がギシッ、と鳴る。少年が鞄を開けると、案の定、ぎっしりとノート、参考書、辞書は多分、三冊。欄干から鞄を押し出そうとする少年を、私は遮る。

「捨て方があるんだ。逆さに振って、ぼとぼと落ちるようにしろ。その方が気持ち良い」

少年の華奢な両手が鞄を持ち上げた。逆さになった鞄が振られると、参考書が、問題集が、ノートが、固く乾いた肉片のように落ちる。辞書が首みたいに相次いで落ち、重い糞に似た音を立てる。

「聞いたか。お前に呪いを掛けてる奴らの、首が落ちる音だ」

「じゃあ、パパとママと兄さんの首だ」

少年は一瞬、晴れやかに笑う。

「少年。恋をしに行け。今のままのお前なら、一生会わないような、そんな女を探しに行け」

「おっさん、馬鹿なのか? その年で、まだそんなセリフ吐いて。

…… あ、弁当も落した」

「いいさ。魚の餌になる」

「じゃあ、僕みたいに身投げした奴らの餌になるんだな」

「お前のパパとママと兄ちゃんの首もな」

 私は歩き出す。橋を渡り切り、路地を曲がるまで、後ろは決して振り返らない。大きな水音がしたような気もするが、別に気にしない。真っ黒な呪いになった少年が、橋の真ん中に聳えている気もする。

辞書捨てたくらいで解決なんかしない。それは分かっている。見渡す限りの皆、少年が敵に回して、やっと解決が始まるかどうか。

少年のどろどろとした悔しさを背中から注ぎ込まれるようで、私はどうにも耐えられなくなり、コンビニで赤いマジックペンを買うと、麻薬を求めるように例の看板へと向かった。

看板の、ほとんど消えている「火」の字の上に、赤いマジックペンで「恋」と書いた。

今捨てたあなたの恋は消えてない

まだ橋の上にいるなら、或いは運良く川から上がれたら、恋をしに行け。たかだか中学生くらいで、魚の餌になるな。いつか少年が看板を見る事を夢見て、私は何とかその夜をやり過ごす。

それから、随分経った夜、尻のポケットに赤いマジックペンを差して、例の看板を見に行くと、誰がやったのか、「あなた」の字が乱暴に削られていて、横に丸っこい字で、黒々と「ケモノ」と書いてある。

看板の下には、高校生くらいか、黒い学生服を着た少年が、べたりと座っている。胸にも腹にも幾つもの靴跡が付いて、顔を腫らし、底光りする眼で私を睨(ね)め上げる。手負いの眼、これは良い眼。これから情け容赦なく勝ちまくる眼だ。

私は看板の標語を、声に出して読んでみる。

「今捨てたケモノの恋は消えてない」

「なんだ、おっさん」嫌悪の赤い唾を吐いて、少年が言う。

「いや、看板」私は少年のすぐ上を指す。

「なあ、喧嘩に絶対勝つ方法って、あるかよ?」

「ないことは、ない」と私は答える。

「教えろよ」

「天井にな、包丁吊って、その下で寝るんだ」

「おっさん。馬鹿なのか」

「死ぬ事に慣れたら負けない。その代り、馬鹿になるけどな」

「やった事あんのか」

「やった。お前と同じ位の年にな。毎晩、包丁を睨みながら寝た」

「勝てたのか」

「負けたことはない」

「俺も、やってみようかな」

「天井の桟に釘打って、タコ糸で吊るといいんだ。画鋲だと落ちる」

「落ちたこと、あんの?」

「ある。朝、起きたら、包丁の上に寝てた。寝返り打ってる間に落ちたらしい」

「あんた、馬鹿を極めてるな」

「そうでもない」

起き上がろうとする少年に、私は手を貸してやる。

「いいこと聞いた。今日からやってみる」少年は、割としっかりと歩き出す。

「死ぬなよ」

もうあいつを殺したかもしれん、と少年を見送りながら、私は思う。いつか突然、釘は抜け落ちる。あるいは糸の結び目が解けるかも知れん。そのとき、寝返り打ってるかどうか、それは運だ。

包丁吊って寝るのは、学習する為だ。何やったって死ぬ時には死ぬ、死なない時は死なない、考えるだけ無駄だって、刺青みたく肌に染み込ませるためだ。

私があいつくらいの頃、あんなに薄汚いどす黒い顔していただろうか。してたな。きっと同じ風だった。あんな具合に生き延びて、私くらいの年になれば、やっぱり思うだろうか、あそこで、それともあのとき、黙って殺されてやれば良かったとか。

夏の果て、と思う。死ぬのなら、夏の果てが良い。私は尻のポケットから赤いマジックペンを取り、看板の「今捨てた」を赤く塗り潰し、その横に、「夏果ての」と、丁寧に書く。

夏果てのケモノの恋は消えてない

河原で花火大会があるらしいが、年を取ると人混みが耐えられなくて、あまり行きたくない。遠い昔に一度だけ、花火大会に行ったことがある。幼かった私は鶏の唐揚を喰いながら、河原に寝転がって花火を見上げていた。その時、そばに誰がいてくれたか覚えていない。安らかだったことだけ覚えている。

死に際に、その時の感覚だけでも良いから甦れば、そう願いながら、私はまた尻のポケットに赤マジックペンを突っ込んで路地をさまよい、また看板に行き当たる。

白いセーラー服の女子高生が、看板に丸っこい字を書いている。看板の「消」の字が、抉られるように潰れている横に、女子高生は黒のマジックペンで、ゆっくりと字を書いていた。「癒」という字だった。

書き終えると、女子高生は私を振り返り、読んでみ、と言う。

「夏果てのケモノの恋は癒えてない」

良いじゃないか、と思う。

「なんか、違うんだよな」女子高生が言う。

「漢字は合ってる」

「おっさん馬鹿だね。あたしの気持ちに合ってないんだよ。これだと今のまんまだ」

「今のまんまで良いじゃないか」

「おっさん、あんたはそのまま腐っていくんだから、いいかも知れないけど、世界があたしを待ってんだよ」

何かの宣告みたいに、空の高みが揺れる。花火が始まったらしい。

「高校生よ、花火、見に行かんのか」

このくらいの年の娘は、浴衣着て、団扇なんか持って、彼氏と一緒に。何だろうな、公式の、幸せ、って奴。それで良いじゃないか。

「あたしは、花火を見たいんじゃなくて」と言いよどむので、私は赤いマジックペンを取り、「癒」も「えてない」も縦線で消して、「花火と成れ」と書く。

「夏果てのケモノの恋は花火と成れ」私は声に出してみる。

「いやいや、それ、無いから。その勘違いヤバイから。おっさん甘い夢見すぎ」

女子高生は「花火」の字を黒く素早く消す。

「ちゃんと考えなよ。ホントに腐って死ぬよ?」

私は恥じ入り、一寸考えた。花火、花火(カビ)、華美、華美(カミ)。黒く消された「花火」の横に、赤く「神」と書く。

「夏果てのケモノの恋は神と成れ」

神って絶対正義だよね、と彼女が聞くので、そうだろうねえ、と答える。

「じゃあ、イケニエになってくれる?」

いいよ、と私は考えなしに頷く。彼女はいきなり、片手を後ろに回して。セーラー服の赤いスカーフが、大きな舌のように舞い上がって。私は自分の胸を見た。

胸に包丁の柄が突き立っている。刃は綺麗に肋骨の間を抜けたのか、出ている部分の刃は僅かだ。黒い柄の丸い穴に、結ばれたタコ糸が揺れているのを見て、私は苦笑いした。

「辞世の句とか、無いの?」

女子高生が興味津々の顔で覗き込んでくる。アーモンド形の眼が美しいな。私は祖父のことを思い出す。祖父の若い頃の写真を。丁度こんな眼をしていた。シベリア帰りの祖父は、熱烈な共産主義者だったが、晩年ボケた。それでも、やっぱり眼だけはアーモンド形のまま、煌めいていた。

祖父が頓死する数日前、ずっと叫んでいた言葉がある。ボケてからは穏やかだった祖父が、眼を爛々と吊り上げ、喉を絞って、身をよじるように叫び続けた。あれは全く近所迷惑だった。

その言葉がなぜか胸底から浮き上がって、つい口に出てしまう。

「特急あじあ号スターリンへ特攻」

ごぼごぼ泡立つ変な声に、自分でも吃驚する。

「変なの。でも、これで安らかに死ねるね?」

いや、これは爺さんの辞世の句だ。

ひどく風通しの良いところにいる。川の匂いと火薬の匂いがする。大気を震わせて、頭上一杯に花火が揚がる。河原と、人の群が輝く。花火大会の真っ只中だ。刺されて死んだと思ったが、賽の河原にも花火は揚がるらしい。

私の立つ土手からは、河原が隅々まで良く見える。死人になったせいか、河原の見物人の一人一人の顔まで、目を凝らせば、はっきりとわかる。

あそこで男に馬乗りになって殴っているのは、いつかの少年だ。花火なんか見もせずに、夢中で殴っている。包丁吊って睨み続けたんだろうか、拳に迷いがない。花火の音が良い具合に、少年の拳を囃している。

向こうに金髪のヤンキー娘がいる。くわえ煙草で、自分より頭一つ分低い少年と手をつないで。ヤンキー娘が、火のついたまま煙草をビッ、と投げて、少年に笑いかける。顔を傾けて、少年にくちづける。少年よ、そのまま恋の一番に聳えていろ。

あの女子高生は神に成れたかな、と考えると、「成れてない」と不服そうな声がする。すぐ横で白いセーラー服を川風にはためかせ、彼女が立っている。胸の赤い染みは、きっと私の血だろう。私の胸には包丁が刺さっている筈だが、ちょっと怖いので見ないようにする。

「痛かった?」

「大して痛くはなかった」私は正直に言う。

ここはどこだ、と聞くのも無粋なので、「何の騒ぎだ」と聞いてみる。なぜなら、花火は小休止したのに、群衆は興奮して叫んでいる。万歳万歳、と叫ぶ声が、やがて唱和し、拍手の波が高まってゆく。

「戦争が始まるの」

彼女が指す川面の、泡立つ闇を割って、巨大な蛹のような機関車がせり上がってくる。黒煙を吐く機関車の昇るにつれ、客車が次々と現れる。川面から蜿蜒と引き抜かれる客車の、どの窓にも痩せ細って骨張った、あれは多分みんな、スターリンへの生贄たち。死んで、生贄であることを止めた者たち。シベリアの白樺の肥やしになってから、鎮まらぬ黒炎と化した者たち。

「あれが、あんたの辞世の句。特急あじあ号」

いや、私の爺さんの句だ。爺さんの、死に際まで隠していた夢。

万歳の声と拍手が、花火のように轟く。やけっぱちのように、矢継ぎ早に花火が揚がり出す。大きな花火も小さな花火も、もうみんな一斉だ。夜空に広がるアンパンマンやバイキンマンの顔が、たちまち別の派手な花火に押し潰される。

「いざ戦争。なんてったって、戦争。人間の本能だもの。セックスより、ご飯より、眠るよりも、心の底では恋してるもの。もう一度世界が真っ平らになる瞬間が、見渡す限り真っ赤な地平で、ポップコーンみたく踊り狂うのが、みんな待ち遠しくて仕方ないの」

 とうとうナイアガラまで火がついて、吊るしている紐が切れたのか、河原一杯に火の蛇がのたうつ。
花火に照り映えて、あじあ号が、長くうねる身を震わせながら、空を突っ切ってゆく。あの方角が北か。

あの果てにクレムリンがあり、赤の広場があるのか。打ち揚がる花火が、次々とあじあ号にぶち当たっては弾けて。漆黒のあじあ号が、花火の七色を喰らい続けて。

「神は、余計だったかな」と私は言う。

「そうかな?」女子高生は不満げに答える。

「絶対正義だって言うのなら。そんなこと言い出したら、きりがない。最後の二人まで殺し合う破目になる」

「じゃあ、『神と成れ』は無しね。で、どう変えるの?」

「戦争してもしなくても、どっちにしてもケモノなら、静かなケモノがいいな。とりあえず、それで我慢する」

 私は路地のブロック塀に凭れている。顔のすぐ横に、古い看板がある。胸には包丁が刺さっていて、女子高生はとっくに逃げたらしい。空に轟音が連なるのは、花火大会が最高潮なのだろう。間違っても砲撃の音じゃない。尻のポケットを探るが、マジックペンはどこかに落としたらしい。なら仕方ない。

私はめまいがするのを怺えて、胸に手を遣る。ほんの僅か、包丁の柄を動かすだけで、背中までひきつれるようで気分が悪い。掌一杯に血が垂れる。今のところ、これだけが私のインクだ。

私は体の向きを変える。看板へ斜めに向き合って、あとどのくらい凭れていられるか。指についた血で、「の」を消す。その横にフキダシを。フキダシの中に、なれども、と書く。まるで船に乗ってるみたいだ。看板に縋るようにして、「は神と成れ」を、掌の血で塗り潰す。

もう疲れた。喉にせり上がってくるのは、何だ。恋か。血の塊だ。馬鹿なケモノの血だ。「しづか」って書くだけなのに、こんなにも力が要る。

私はもう声が出ないので、目で文字を追う。

夏果てのケモノなれども恋しづか

とりあえず、これで我慢しよう。ひとまず死にます。この先は、女子高生か少年が書け。

(了)





【作者紹介】

  • 竹岡一郎(たけおか・いちろう)

昭和38年8月生れ。平成4年、俳句結社「鷹」入会。平成5年、鷹エッセイ賞。平成7年、鷹新人賞。同年、鷹同人。平成19年、鷹俳句賞。
平成21年、鷹月光集同人。著書 句集「蜂の巣マシンガン」(平成23年9月、ふらんす堂)。

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