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(デザイン/レイアウト:小津夜景)
(デザイン/レイアウト:小津夜景)
天蓋に埋もれる家(中) 小津夜景
そして結局ね、作者はこんな賢い地点に到るのよ/《この真つ赤な皮をむくには、リンゴを切らうとしてはいけない。かうナイフの根元を果柄にあて、それを中心にして、なめらかにリンゴの方を回すのだ。リンゴの全面を覆ふ真つ赤な皮がたえず細い帯となつて、ナイフの刃から生まれ出てくるやうに見えるだらう。されば、わたしはリンゴの白い果肉であるところの領域を得ようとして、むしろ真つ赤な皮に覆はれてあるところの領域をつくらうとしてゐるので、これら二つの領域をなす境界は、白い果肉であるところの領域に属し、外部と呼ばれるところのものと看做すことができるだらう。してみれば、白い果肉に属する境界は、幽明の境に準へてもいいのではあるまいか。
きみはまだ小さくなにも知らなかつたらう。わたしが愛するきみたちのもとを去らなければならなかつたのは、なにものもその意味を取り去らなければ、構造することができないとしたことが許されなかつたのだ。そして、構造しなければ意味をなすことができないとしたことが許されなかったのだ。おそらく、ガリレイが審問にかけられたのも、これだつたのであらう。なぜなら、彼等には意味を取り去ることは不敬であり、かうして得られた構造によつて、新しい意味を見いださうとすることは恐れであつたからだ。だが、いつたい、わたしはだれにたいして、なにをなし得たといふのであらう。わたしはただこのむかれ行くリンゴの真つ赤な皮のやうに、ひつそりとこの生を狭めて行くばかりではないか。
しかし、このやうにして狭められて行くのも、じつはたへず死によつて彫塑され、実現されやうとしているといへなくもない。してみれば、実現とは死であるのか。ここに生がつねに問はねばならぬ問ひがあるのだ。なぜなら、現実は実現されることによつて、はじめて実存するところのものとなるのだから。だが、もしこの問ひをむなしとして、問ふことを放棄すれば、わたしはただあるがままにすぎないものとなつて、なにものでもないものになつてしまふだらう。ちやうど、このリンゴの白い果肉をあの世に譬へ、幽明の境ともいふべき境界がこれに属するといっても、それはわたしが否応もなく広がつて迫つてくる白い果肉を得ようとして、生になぞらへた真つ赤な皮を時間の刃で剥かうとするかぎりのことである。むくことをやめれば、境界はそのいづれの領域に属するといふことができず、したがつて白い果肉も真つ赤な皮も、もはやいづれが内部とも外部ともいはれず、ただあるがままにあるにすぎないものとなつて、なにものでもないものになつてしまふやうに。
しかし問ふことを放棄しなければ、どうであらう。実現されていく空間はつねに境界より一次元高い。たとへば、一次元空間をなさしめる境界が0次元空間であり、二次元空間をなさしめる境界が一次元空間であり、三次元空間をなさしめる境界が二次元空間であるやうに。しからば一次元空間にすぎなかつた幽明境に実現されたにすぎなかつた今までの生が失はれたのではなく、更に次元を高められた幽明境とする高次元空間に蘇つたのではなからうか。ここに恍惚の可能性がある。ピラトがイエスに問ふたのもここである。
イエスは答へなかつた。イエスにとつて答へとは、問ひを問うて大いなる問ひに至ることでなければならぬ。それはあたかもわたしが、リンゴの真つ赤な皮をむき終はつた瞬間に似てゐるといへるであらう》/どう?/私の世界とはずいぶん違ふ/広くて見えないやうな、狭くて息もできないやうな、まるで天蓋にめり込んでしまつたやうな、この家とは。
Cela est plus haut que le ciel.
万緑のうすい閾をはづしけり
Il est versé sur la terre comme du sirop.
あしゆびに時空は剖く扇かな
Je me fige comme l’agar-agar.
まなざしはゼリーぢーつとしてゐると
En saisissant sans aucune façon.
窓がらすはつなつの喪をかがやかす
Ma connaissance est juste pure.
恋びとよあなたのうしろ山が鯖
Je descends vers une place d’autre.
マトリーショカ蒸し暑かれば空とせよ
Je vois un feu,
手花火のふつと黙しをなすところ
神を折る蛆の次元に沿ふやうに
Je vois un boomerang,
あまとぶや軽業死してかぶとむし
余花の雨アンドロメダのベランダで
【作者略歴】
- 小津夜景(おづ・やけい)
1973生れ。無所属。
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