今年三月、川名大の新しい評論集『俳句に新風が吹くとき―芥川龍之介から寺山修司へ』(文學の森)が刊行された。本書は『挑発する俳句 癒す俳句』(筑摩書房、二〇一〇)の「発展ないし相補的関係」にあるものとして書かれたものである。両書は「各時代の表現史の高みを築いた句集」の「代表句を読み解くことで新風生成の真相に迫ろうとしたもの」であるが、『挑発する俳句 癒す俳句』が一九三六(昭和一一)年の『長子』(中村草田男)から一九八六(昭和六一)年の『君なら蝶に』(折笠美秋)までを対象としていたのに対し、本書もまた一九二七(昭和二)年の『澄江堂句集』(芥川龍之介)から一九七五(昭和五〇)年『花粉航海』(寺山修司)までを対象としており、この時代の選定がすでに川名の批評となっている。
『挑発する俳句 癒す俳句』の「はじめに」でも書いたことだが、そのすぐれた俳人の一人で、現代俳句の牽引者であった高柳重信氏の逝去(昭58)あたりを境に、新風を生むための歴史的な生成のシステムが崩壊しはじめ、その生成力が衰弱する現象が起こった。人々は今を楽しむことに関心を傾け、表現史のパースペクティヴへの史的関心を失った。(「あとがき」)
この種の川名の嘆きはすでに幾度も繰り返されてきた。それが現状への苛立ちとしてあらわれていたのはかつての次の文章であったろう。
平成に入ってから、特にここ四、五年における俳句の状況は危機的であろう。近現代俳句史において、今日ほど俳句形式がないがしろにされ、真の俳人への畏敬の念が失われている時代はないだろう。その兆しは、すでに昭和五十年代後半にあった。主たる原因は俳句の大衆化をベースとする俳誌・主宰者の簇生や句集の氾濫である。一句も代表句がない俳人が恥じることなく主宰者となり、俳句講話などを行い、商品価値のないメモリアルな句集が量産される。(略)凡庸な俳人たちは、「吟行」というスナップ的な嘱目句やメモリアルな生活句を、たわいもない思いつきや擬人法や取り合わせなどで詠み、嬉々として俳句と戯れている。「お茶俳句」や高校生の『17音の青春』などの「平成くずれ」(飴山實)を良しとする愚鈍さも同類だ。(「俳句は『簡単な思想』形式か(一)―往信だけで終わった旧書簡より―」『俳句は文学でありたい』沖積舎、二〇〇五)
ここで川名が現在の「危機的」な状況の兆しを昭和五〇年代後半にみているのは、いうまでもなく高柳重信の没年を意識してのことであったろう。俳句を高柳に学んだ川名の立場を考えれば、これを師への肩入れだと一蹴することもできようが、はたしてそれですませてよいものだろうか。僕は川名の現状批判のすべてが正しいとは思わないけれど、いたずらに現状を肯定するような―いわば「平成無風」を否定する昨今の風潮も間違っていると思う。そもそも、(後掲するように)川名のいう「文学」としての「俳句」が成立しなくなったのが現在であるのならば、川名の目からすればろくな俳句表現が生成されないという現状認識が生じるのはいわば当然のことである。その意味では「平成無風」は正しい。だが、ここで問い直すべきは、そもそも「平成無風」を否とする批評の方法自体ではなかったか。僕には、「文学」としての俳句に対するときと同じやりかたで俳句表現の現在地をまなざそうとすること自体がいかにもちぐはぐなことであるように思われてならない。ここで再び川名の言葉に戻ってみよう。
先に「危機的な」といったのは、そうした小手先の技術主義の俳句とは対照的に、自己のアイデンティティーの俳句によって敗戦以後の俳句を支えてきた主要な戦後派俳人が相次いで鬼籍に入ったからだ。戦後派俳人たちの俳句観は、「詠むべきテーマもなく作ってもしかたがない」(三橋敏雄)、「自己の命に根ざさなければ、巧くなくっても(ママ)仕方がない」(森澄雄)、「不安な時代には不安を詠わない作家は信用しない」(鈴木六林男)に端的に表れている。彼らが生みだしたのは、自己表現、文学としての俳句だ。(前掲「俳句は『簡単な思想』形式か(一)」)
このような「俳句」を是とするならば、俳句表現の現在がいかにも無残なものに見えるのは当たり前である。「詠むべきテーマ」もないのに俳句を詠むことを恥じないのが現在であるからだ。とすれば、「小手先の技術主義の俳句」の氾濫もまた当然であった。川名がそのような現在を批判するのは一面では真っ当なことのように思う。けれども、僕には川名の掲げる正義があまりに眩しすぎる。この違和感の淵源は、たとえば本書「あとがき」に記された次の言葉にあるように思われる。
上記二冊の著作(『挑発する俳句 癒す俳句』『俳句に新風が吹くとき』―外山注)で、昭和俳句の表現史にかかわる句集単位での仕事は、ひとまずピリオドを打ちたい。攝津幸彦の『鳥子』(昭51)など戦後世代の優れた句業への関心もあるが、それらに対しては若い世代に有能な適任者がいるであろう。したがって、私の二冊は平成俳句への訣れのメッセージでもある。
私が愛し、私を育ててくれた昭和俳句。それを対象とした句集による表現史を意図した本書を、『挑発する俳句 癒す俳句』と併せてお読みくだされば、ありがたい。
川名は「平成俳句」と訣別するという。山口誓子は「黙殺―これは実に立派な批評形式である」と述べたが、僕たちはこれから、川名大という優れた読み手の「黙殺」のもとで書き続けなければならない。けれど、寺山修司や高柳重信の死後に生まれた僕たちには、僕たちなりの俳句の愛しかたがあるはずだ。それがいまだ見いだせていないとすれば、それは僕たちがいまだ「僕たちの川名大」を持っていないからである。
「昭和俳句」が「川名大」を持ちえたのは幸せなことだった。本書でも遺憾なく発揮されているように、具体的なテクストに即して表現史を構築していく読み手としての川名の優れた仕事ぶりは他の追随を許さないものであろう。たとえば川名は誓子について『凍港』から『炎昼』にかけての仕事ではなくむしろ『七曜』以後のそれに誓子の辿りついた高みを見出し、「すでに戦時下において誓子は『根源俳句』の高みを達していた」と評価する。しかしその一方で、戦後における「外面的」「心理的メカニズム」への執着という誓子の陥穽をも指摘している。川名はまた、鷹羽狩行の『誕生』を高く評価しながらも、師の誓子が陥った「外的対象物をおもしろく表現すること」に鷹羽もまた陥っているとし、「見立てのレトリックを中心として、心理的屈折・擬人法(これも見立て)・対句法(対比法)・論理的な綾(屈折)」などを用いて「おもしろさを狙い撃ちする」道へと進んだことを「踏むべき道を踏み誤った」と評する。川名は徹底して句集を読みこむことで新たな俳句史を生成していくのである。
川名はまた掉尾を飾る寺山修司について、「寺山は青春俳句しか作れなかった」という加藤郁乎の評言を検証している。ここでいう青春俳句とは、たとえば次のような句だ。
目つむりていても吾を統ぶ五月の鷹
ラグビーの頬傷ほてる海見ては
母は息もて竈火創るチェホフ忌
父と呼びたき番人が棲む林檎園
沖もわが故郷ぞ小鳥湧き立つは
川名は寺山の「青春俳句」の特徴を「のびやかでリリカルな短歌的な調べとともに父恋い・母恋いなどをモチーフとする仮構の物語を織りなしたこと」にあるとする。だがそのうえで、「歌ったり、物語ったり、演じたりせず、鈴木六林男の『阿部一族』の句のように『切れ』の空白に豊かな黙劇を呼び込む構造的な力を発揮した俳句」を「大人の俳句」と呼び、次のようにもいうのである。
その「大人の俳句」の概念に照らしてみたとき、寺山も「青春俳句」以外の句も言葉にあふれ、歌いすぎ、物語りすぎている。つまり「青春俳句」の俳句様式、文体を引き摺っているのだ。言い換えれば、寺山は一度も俳句独特の黙劇の構造的な力を使いこなせなかった。それゆえ、寺山流の俳句様式を打ち砕く俳句形式の非情な力に敗れたともいえるのである。そこに「寺山は青春俳句しか作れなかった」要因を見ておきたい。
「牧羊神」の仲間で、「牧羊神」時代には寺山の後塵を拝していた大岡頌司や安井浩司は後年、「大人の俳句」を作った。(略)
寺山は俳人としては彼らにも敗れたことを甘受しなければなるまい。
川名はここで大岡頌司や安井浩司を引き合いに出しているが、これこそ川名の昭和俳句への愛のありかたであったろう。ここでの川名の言葉は、その若き日に寺山を中心とした「十代の俳誌」である『牧羊神』の同人を馘首された安井が、やはり寺山によって「仲間のうちで最も嫌いな俳人」と形容されたという大岡の第一句集『遠船脚』について述べた次の言葉を念頭に置いているにちがいない。
いまや懐かしい『遠船脚』は、大岡頌司個人のみならず、私たちの遺産の一つであると思っている。あまり誇れるものもない中で、貴重な遺産の一つというべきであった。私たちといえば、かつてそこには一つの世代、ごく狭義の世代があって、それは昭和二十八・二十九年頃、〝寺山修司〟の俳句運動に象徴される一つの世代意識である。直接に寺山修司と関係のないグループもあったが、しかし寺山の波及力を考慮に入れると、けっきょく寺山を中心に私たちの世代のサイクルは回転したとみるべきであろう(傍点原文。「『遠船脚』と大岡頌司」『海辺のアポリア』邑書林、二〇〇九)
川名はかつて大岡や安井が甘受した作家的敗北を、数十年の時を経て「寺山は俳人としては彼らにも敗れたことを甘受しなければなるまい」と語り直しているのである。これはあたかも三人の作家の間に生じた逆転劇のようにも見えるが、「昭和俳句」の読み手としての川名の本懐はそこにはあるまい。僕たちがここに見るべきは、「川名大」という読み手によって成し遂げられた彼らの再びの邂逅の美しさであろう。そもそも、「寺山/安井・大岡」などという対立構造など、彼らにとって―少なくとも安井自身にとって―どれほど重要であったろう。僕には彼らがそのような安っぽい構造で語れる程度の関係にあったとは思えない。先の文章で安井がしきりに「私たち」という言葉に執着しているのはそれゆえではなかったか。そして川名が寺山を語るときに安井や大岡の名を挙げたのは、この「私たち」という言葉に込められた安井の愛憎入り混じった思いを、川名もまた切実なものとして受けとめ続けてきたからではなかったか。いわば、寺山を語るときに安井や大岡がそのアングルに映りこんでくるということこそが、川名の「昭和俳句」の愛しかたなのである。
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