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2014年2月21日金曜日
【西村麒麟『鶉』を読む5】 肯うこと ―西村麒麟第一句集『鶉』読後評― / 澤田和弥
まずは西村麒麟氏の第一句集『鶉』ご上梓にお祝いを申し上げたい。
鶉は小さい鳥である。幼い頃、その卵がとても気になっていた。
鶏卵はよく目にするし、口にもする。
駝鳥の卵を初めて見たときも、さほど衝撃はなかった。
しかしスーパーに10個1パックで並ぶ
鶉の卵が気になって、仕方がなかった。
わが家では鶉の卵は購入しない。
あの小さな可憐な卵が欲しくて欲しくて仕方なかった。
或る日、外食の折にとろろに鶉の卵が乗っていた。
それはあまりもかわいらしく、ずっと愛でていたいような黄身だった。
私は鶉の卵がさらに欲しくなった。
後日、母のお伴でよく行くスーパーに、
焼鳥屋の屋台が出ていた。
なんと、そこには鶉が売られていた。
あのかわいらしい鳥が無残にも半分に裂かれ、
香ばしく焼き上げられていた。
強い衝撃だった。
我々は生命を喰らって生き延びているということを、
幼いながら改めて認識した瞬間だった。
句集『鶉』が焼鳥になって、売られることはない。
しかし、この句集には幼いときに私がいだいていた
「鶉」への思いを甦らせるものがあった。
この句集を読むことは、
そのまま嬉しいという感情につながる。
気持ちがよいのである。
それはなぜか。
西村氏の俳句は、存在する事物事象を
あるがままに前向きに受け入れ、
全てを肯定するからである。
これは簡単にできることではない。
私は西村氏の半生を知っている訳ではないが、
かなりつらいことを乗り越えてきたのだろうと想像する。
何の経験もなく、全てを肯定する者は単なる馬鹿である。
否定的局面をいくつも乗り越えたうえでの全肯定は聖性を有す。
私は『鶉』に聖性を見るのである。
この句集を前にすると、
自分はなんてちっぽけなことで悩み、
ささいなことで人と争っているのかと、
赤面してしまう。
俳句というこの小さな詩型を前に、
これほどまでに怯えている自分に気付く。
誰もが受け入れてもらいたい。
肯定してもらいたい。
否定されたくない。
一人の個人として、人間として、受容してもらいたい。
西村氏の俳句はその根源的願望を叶えてくれる。
『鶉』は広く、明るく、素直である。
父なる太陽、母なる月光とまでは言わない。
それにしては「鶉」はあまりにも小さく、ひ弱である。
一句一句については、まだ充分にのびしろがあると思う。
もう少しことばと格闘してほしいと思う句も散見した。
しかし、だからどうした?という話である。
この句集は西村麒麟氏という稀有なる光から生まれた、
なんともかわいらしく、そして底抜けに明るい、
神々の祝福のもとにある一冊である。
素晴らしい句集であることを私は心から祝福したい。
肯うことの力強さと幸福感を改めて感じさせていただいた次第である。
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