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2014年2月14日金曜日

「俳句空間」№ 15 (1990.12 発行)〈特集・平成百人一句鑑賞〉に纏わるあれこれ(続・5/大岡頌司「花蘇榜出窓は時をとどめ得ず」)  大井恒行 

大岡頌司「花蘇榜出窓は時をとどめ得ず」

                                  
大岡頌司(1937〈昭12〉3.30~2003〈平15〉2.15)の自信作5句は以下通り。

飲めるうちは飲む蓴菜(じゆんさい)を魚にして 「俳句未来」1989(平成元)年8月号

らふそく釘貫くまではかぼちやなり       「鵞」26号 1989(平成元)年1月 
にせあかしあに變(な)るなんぢらの夏衣    「俳句」 1990(平成2)年5月号 
花蘇榜出窓は時をとどめ得ず          「鵞」27号 1990(平成2)年3月 
無きものを思へば寧し天仙花          「鵞」28号 1990(平成2)年6月

一句鑑賞者は、内田正美。その一文には「ここでまた恣意的な読みをほどこせば、まず『出窓』とはこの場合、まさに『眼』の比喩にほかならないのだ。そして次に『時』であるが、この語には時間・時刻・時代・季節などの意味がある。これらの言葉から思いつくことは、『時』の流れとはひたすら未来へむかって不可逆的に直進して行くものであると言うよりは、かつてアインシュタインが考えたように円環的な運動性を有しているということである。つまり、『時間』のもつ特性をそう解するならば、『時刻』とは永劫に回帰するものの謂であろうし、『時代』とは、一般によく言われるように幾たびもくり返すものである。そして『季節』=春夏秋冬もまた然りである。結局この句が表出しているのは、眼にうつる現象界はすべてうたかたであり、かつ消えかつ結びてといった厭世的な無常観と、死と再生、つまりは復活の歓喜とが共存している一種の混沌(カオス)であろうとおもう」とある。

大岡頌司には、ひたすら三行の多行俳句を創った時期がある。その三行の多行を現在に受け継ぎ、頑としてそれを表現形式として実践している弟子がいる。酒巻英一郎だ。その酒巻英一郎がワープロ稿にし、高橋龍、安井浩司、岩片仁次の編集として、『大岡頌司全句集』(浦島工作舎)2002年10月刊)は刊行された。日月わずか、翌年2月には、長年の病は回復することなく亡くなった。享年65。端渓社という版元として、世にそれとはっきり解る造本をもって句集を送りだしてきた大岡は、自ら「『全句集』あとがき」に次のように記している。

 本集は未刊句集『慫慂』を刊出するつもりで、酒巻君にワープロ稿をたのんでいたが、いつからか、全句集刊行の方に話しがすすみ、それならば、と『遠船脚』の残り一冊を、酒巻君に渡した。(中略) 
 旧活字で最後まで頑張ったつもりの私ではあったが、皮肉にも、新時代の印刷システムで幕引きすることになった。これもまた、文花の一法かもしれない。

 

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