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2013年12月6日金曜日

三橋敏雄『真神』を誤読する 92. 水づたひ浮いて眞白き産み流し / 北川美美


92.水づたひ浮いて眞白き産み流し

「敏雄はイメージで読め」とアドバイスをされたことがある。第一印象としてのイメージということもあろうが、敏雄句から受けるインパクトを大事にするべきだという意見と思う。『眞神』の句は第一印象から想起する「イメージ」に読者各々の立ち位置から踏み込んでいくと更に『眞神』の世界を体感できる。「イメージ」というのは輪郭であり、曖昧な言葉ではあるが、『眞神』句から受ける「イメージ」と駆使されている「言葉(あるいは言語)」の関連性を考えるとき、読者は自己の迷宮に入ってゆくことになる。それが敏雄句の魅力であると言えるだろう。言語用語の「シニフィアンとシニフィエ」のそれである。

「近代言語学の父」といわれたスイスの言語学者フェルディナン・ド・ソシュール(Ferdinand de Saussure、1857-1913)における、シニフィアンとシニフィエ、シーニュ、ラカンとランカージュ・・・それらの言語学用語を駆使し文学上において敏雄句を解明してゆくことは俳句史において大いに意味あることだろう。

高橋龍がソシュールの学説論を紐解き、シニフィアン=入れ物、シニフィエ=中身と言い、更に近代詩の学術論を引用しつづけるのは一重に敏雄句(と限定させていただく)を解明したいということが動機付けではないかと思うようになった。俳句の深淵に立ち続け敏雄句に魅了されつづける人々が数多存在するのである。

敏雄句特に『眞神』においての敏雄句は、ソシュールの学術論を引用するには恰好のテキストとなる。言葉が読者それぞれの記号となり読者それぞれの経験上の風景と重なりあってくるのである。


さて、上掲句。

“イメージ”で紐解くならば、インドのガンジス川のような“イメージ”である。深い河、宗教的なことさえも意味するガンジスの聖なる河に身を沈め沐浴するのである。人はその水の中でこの世に生まれて来た事を思う。

そして産み流されれているのは、まだこの世に生まれいない未生の自分。生まれていない自分が流されてゆく。ここでも「父母未生以前」という近代の思想が関連されるだろう。

さらに「真白き」は男性精子なのか、それとも母乳なのか、Milky Way=天の川を示唆するようにも思える。以下はMilky Wayの所以であるギリシャ神話である。

ゼウスは、自分とアルクメネの子のヘラクレスを不死身にするために、女神ヘラの母乳をヘラクレスに飲ませようとしていた。しかし、嫉妬深いヘラはヘラクレスを憎んでいたため母乳を飲ませようとはしなかった。一計を案じたゼウスはヘラに眠り薬を飲ませ、ヘラが眠っているあいだにヘラクレスに母乳を飲ませた。この時、ヘラが目覚め、ヘラクレスが自分の乳を飲んでいることに驚き、払いのけた際にヘラの母乳が流れ出した。これが天のミルクの環になった。
生れて流れてゆく自分。魂の話かもしれない。前句の「面変りせし蛾よ花よ灰皿よ」を受けて生生流転の世の中を思う。哲学的な壮大なテーマとしても読める句である。

言葉の使用について考えてみる。

連用「水づたい」この「づたい」については、水の流れに添ってゆくことだろう。「水づたい」の後に切れがあると読む。そして中七下五でさらに上五に戻り回転する。

水づたい/浮いて真白き産み流し

続く中七下五において、恐らく「は」が省略されているようにも思える。「浮いては真白き生み流し」。水中での産卵、あるいは出産を考えてみると、息を吸って吐くときに出産するのかと想像する。なので「浮いて」は「産み流し」をする母体のことなのかと思うのだが。

「産み流し」という複合語であるが、好印象の事象ではないだろう。「産み流し」「垂れ流し」、やりっぱなしの“イメージ”である。となると「産みっぱなし」で生まれて放置された育児放棄の状態である。

人がこの世に生まれるということは、臍の緒が切れると同時に水に放流され浮遊するままに流れるのみ。

彼の世も水の中であるならばそれは同じことなのかもしれない。

彼の世もこの世もそして前世も「水づたい」で繋がっているのである。

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