- 二十四節気題詠句 その7
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月烈烈断水ノ街。犬帰ル 平成7年作 注①
肉が骨が無防備 冬銀河 平成7年作 注②
カラクリ 背骨カラゼロガデテ来タ 平成7年作背骨から出て来たのはゼロのみである。つまり何も無い、空なのである。意思としてのカラクリが空虚であるという深い絶望感がそこに漂っているような。
84.天地や揚羽に乗つていま荒男(『詩客』 2011年09月09日掲載 戦後俳句を読むテーマ「夏」に掲載したものを加筆修正。)
霧しづく體内暗く赤くして
産みどめの母より赤く流れ出む
身の丈や増す水赤く降りしきる
肉附の匂ひ知らるな春の母
秋色や母のみならず前を解く
夏百夜はだけて白き母の恩
この子また荒男に育て風五月 渡邊白泉
83.噛み含む水は血よりも寂しけれ
こちらむけ我もさびしき秋の暮 芭蕉
去年より又さびしひぞ秋の暮 蕪村
さびしさのうれしくも有秋の暮 蕪村
私は生活上の転変に必要以上に惑わされることもなく、何事も俳句のことを考え、俳句を書くことに集中することで克服できたような思いがある。-あとがき‐
沖に起つ濤のひとつは嘶くも
黒南風に遠き煙火(はなび)の音まじる
春闌けてピアノの前に椅子がない
集まつてみな棒立ちや青嵐
波のなき海図はさみし幸彦忌
桜散り片づけられぬ猫の砂 北川美美
眠りつつ仔猫戯(じゃ)らしの尻尾かな 板屋ちさと
秋風を見てゐる猫を見てゐるよ 西村麒麟
[安井浩司について] 意味はなかなか伺いがたいかもしれない。しかし、いつから俳句は分かりやすくなければならないなどと決まったのだろう。(p.68)
[新聞俳句について] ともに稲畑汀子、金子兜太、川崎展宏、長谷川櫂だというが、こうして指摘されてみると、商業誌の投句欄や結社の雑詠欄に比較しても、いまさらながら格段のレベルの低さを否めない。(p.94)
人は意外に思うが、俳句は口承詩なのである。愛唱に堪え得る一句を作り、残すことが俳人の使命である。(p.139)
[岸本マチ子の句について] 違和感? 実際これくらいの問題意識がなくて、どうして俳句が現代文学であるなどといっていられようか。(p.316)
[鳥居真里子の句について] 表現として、緻密に神経を張り詰めているのはよく分かるが、表現だけで持って行けるところなど現代俳句でははもう壁にぶつかっている、作者はそれに気づいた数少ない伝統派の作家である。(p.319-320)
[日本気象協会の二十四節気見直し案問題について] しかし二十四節気を変更することによって、ますます東京中心主義が増長されるなら、何もしないに越したことはない。(p.517)
[前北かおる、鈴木淑子、杉原祐之について] しかし、若い世代同志で比較している内はよいとしても、例えば、戦後世代としてひとくくりにされて、大竹多可志、山田耕司などと比較されたときには当然のことながらかなりの酷評とならざるを得なかった。人生の重みといってしまっては言いすぎだが、何かに賭けているかどうかの差は歴然としてしまうからである。(p.526)
俳句という文芸は、その目的が「美」なのか「真」なのか、答えは単純ではないが、俳句をたしなむものは時々その質問をしてみるとよい。(p.568)
新しい世代を呼び込めない文芸ジャンルは滅ぶしかない。(p.583)
●俳句の本質は挨拶である。そして挨拶性は、句会と題詠にこそ現れる。実は、虚子がホトトギスで始めた雑詠は、題詠を断絶し、句会を雑詠の予備化するものであり、その近代的意味(投稿作品の優劣を選者が競わせるという意味)から言っても「反挨拶」的である。(p.291; 小澤實)
[…]江戸時代にあっては、俳人と一般人との生活の落差に「俳」が生まれていたのに対し、明治以降は写生によって新たな俳を生み出そうという試行が行われていた時代だと述べている。(p.293; 小澤實)
「月並が俳句にとり不可欠の要素であることは俄か俳人でない限り頭か肝のなかで納得している」(p.454; 加藤郁乎)
基督は欝にあらずやいたちぐさ 星野麥丘人
傀儡師が消え戦争が始まった 吉田汀史
裏側に裏と書かれし暑さかな 永末恵子
括約筋見事に使いこなす雁 山崎十生
さくらんぼヨセフにねだるマリアかな 有馬朗人
手首だけ運ばれていく日傘かな 渡辺誠一郎
花燃えるくさかんむりに火がついて 高澤晶子
死者の脂滴る 井桁の薪から 伊丹三樹彦
彼女やつとプールの我を見付けけり 本井英
月明の眠剤ひとつふたつ百 中岡毅雄
ガリレオの頭蓋もかくや寒の月 鷹羽狩行
初句会帝国ホテル孔雀の間 星野椿
草餅の端より草餅始まりぬ 久保るみ子
挽肉の紐状に垂れ蝶の昼 中村和弘
○徳川頼貞君 私はこの際、我々委員会の中で、その外に議せられた紀元節の問題について、一言述べさして頂きたいと思うのであります。これは、この中に紀元節が入れられなかつたという点は、誠に遺憾に堪えん次第であります。我々は紀元節というものが、是非残して頂きたいということを述べたゆえんのものは、紀元節の起原が、いわゆる非科学的であるというような考え方も行われていたのでありますが、私共といたしましては、どこの國と雖も、その歴史を遡つて行くならば、必ずや神話に発生しないところはないと思うのでありまして、今日までその神話を歴史と、青史と見ていたという点に問題が存するのではないかと思います。従って神話を神話としてこれを伝え、そうして神話として新らしい国民にこれを伝えるのには、差支えないのじやないかと考えたいのであります。又同時に、神話の中には、その国の国民感情というものが現われておる。従ってその点も考慮して、我々の祖国の始まりを考えるということは、我々国民の非常な熱望であり、又感情であると当然思つたのであります。併しながらその点は種々な事情によりまして、その方面に容れられない結果となりましたことは、誠に遺憾に堪えんのでありますが、この際我々が、如何に紀元節というものを考えていたかということを一言附け加えさして頂きたいと存じます。
○羽仁五郎君 今の問題ですが、二月十一日、紀元節が、この新しい国民の日に入れられなかつたことについて、私共は、これは全く我々の自主的な判断によつて、これを除くべきものであると考えたのであります。この点は明らかにして置きたいと思います。今も御披瀝がありましたが、紀元節が神話であるという考え方も、学問的には成立し難いように考えます。それで神話には、御承知のように、自然に発生した民族の神話と、それから後に政治的な意図を以て製作された製作神話とが、学問上分けられなければならんわけでありますが、紀元節などを含みます日本のいわゆる神話というものは、そういう意味で自然に生れた神話でなく、後世になって一定の政治的意図を以て製作された神話であるということは、学界において大体定説になっておるものであります。従ってこの紀元節を作ります日本の神話に、当時の日本の国民の感情が含まれていたものでないということも明らかであります。これは当時のそういう政治的な意図が含まれていたのであつて、国民の意図が含まれていないもので、紀元節が行われていたのも、明治五年に始まり、明治七年に俄かにそれが制定されて、その後暫くの間行われ、且つ強力にそれが強制されておつたために、現在国民の感情には滲み込んでいるわけでありますが、併しこれは本来の感情でもなく、又非常に長い間の国民感情でない。我々が今日以後、新憲法によつて、そうして新らしい国民の日によつて、啓蒙の努力を怠らないならば、新らしい国民感情が必ず起って来るものであることを確信しております。
徳川は「種々な事情によりまして、その方面に容れられない結果となりました」といい、羽仁は「私共は、これは全く我々の自主的な判断によつて、これを除くべきものであると考えたのであります。
○松澤兼人君 「こどもの日」を祝祭日に指定していただきたいという請願でございます。同じような趣旨の請願が多数出ておりますが、特に御考慮をお願いしたいというわけであります。祝祭日が改正されまして、新しく別個の観点からこれが考慮されるということになりましてから、從來児童文化運動の活発な神戸市の方面におきまして、児童並びに児童に接しております人々の中に、ぜひ「こどもの日」を設けてほしいという声が、だんだんと起つてまいりまして、神戸児童文化連盟におきまして、これを正式に取上げることになつたのであります。ぜひ祝祭日の中に「こどもの日」を制定されたいていう請願であります。請願者は神戸児童文化連歴で委員長坂本勝君でありますが、神戸市内の児童約二万七千名の者が署名をいたしまして、請願の趣旨のことをお願いしておるわけであります。
従来日本の子供が家庭的には一応愛せられておりながら、社会的には、まだ十分に尊敬されておらないというような状態にありまして、子供の状態が社会的に多少の関心をもたれるようになりましたのは、明治以後のことといつてよろしいのであります。それ以後子供の社会的地位ということにつきまして、だんだんとその関心が高まりつつあるのでありますが、特に新しい憲法が実施せられるこの機会に、さらに子供の社会的な位置というものを明確にするとともに、国民全体が子供の社会的地位につきまして常に考え、その幸福を助たる機会をもち、児童の福祉増進に役立たせるために、祝祭日の中に「こどもの日」の制定を希望するわけであります。それでは「こどもの日」をいつにするかということにつきまて、神戸児童文化連盟において神戸市内の学識経験者約百名にアンケートを発しましたところ、多数が五月五日を希望するという回答であつたのであります。五月五日は端午の節句として男のものと考えられておりますが、男女平等の観念からすれば、これが必ずしも男だけに限るわけでもなく。またこの日が尚武の節句として面白くないという印象を与えておりますが、これを切りかえて五月五日を平和な国家を建設するという意味におきまして新しく子供を中心とした平和的な日として考えていくことが適当でないかというふうに考えられるのであります。以上の理由によりまして、五月五日を「こどもの日」として祭祝日の中に制定くださいますよう、神戸市内児童約二万七千名の署名をもちましてお願いする次第であります。
○羽仁五郎君 今の五月五日については、それは五月五日の日が、やはり現在日本の国民の中に武を尚ぶ日として残つておるので、私は五月五日という日に対しては、やはり反対しなければならないと考えておるのでありますけれども、併しそれに対してこの新らしい意味を、今三島委員の言われたように与えられる。そういう意味で、子供の人格を重んずるという趣旨が新しく出て来るならば、第一條に述べられておるような、新らしい美しい風習を育てるという意味で、この五月五日を、今までのいわゆる端午の節句という意味で、いわゆる尚武の節句という意味でなく、男の子も女の子も、この日に人格を認められるという、新らしい日ができるものとして賛成をいたします。そういう意味で、この子供の人格を重んずるという、人格のことが制定の趣旨において最後まで守られるようにお願いいたしたいと考えるのであります。
○徳川頼貞君 只今来馬さんからお話がありまして、十一月三日を今度「文化の日」にいたすということにつきまして、元来十一月三日は、我々の間におきましては、只今もお話のございましたように、日本国憲法の発布された日であるので、その意味において、十一月三日を記念したいというような気持を我々は持つていたのでありまするが、衆議院の方で十一月三日を「文化の日」にして、そうして五月の三日を「憲法記念日」にしたいという話もありまして、我々の方としては、十一月三日を「文化の日」ということに、衆議院の意向を尊重しまして、そのことは延いて、結局ここにもございますように、憲法の精神たる自由と平和を愛することになる。又それによって文化を進めることになるから、この際これを「文化の日」にするというわけでありまして、勿論これに対して異議はないのでありますが、一応我々がどういうふうに考えていたかということを、この際申述べて置きます。
○委員長(山本勇造君) この日が憲法記念日だというのは、ピンと誰にでも分るのでありますけれども、「文化の日」と言いますと、どういうわけで「文化の日」だかという疑念があるようであります。併しこの日は、憲法において、如何なる国もまだやつたことのない戦争放棄ということを宣言した重大な日でありまして、日本としては、この日は忘れ難い日なので、是非ともこの日は残したい。そうして戦争放棄をしたということは、全く軍国主義でなくなり、又本当に平和を愛する建前から、あの宣言をしておるのでありますから、この日をそういう意味で、「自由と平和を愛し、文化をすすめる。」、そういう「文化の日」ということに我々は決めたわけなのです。併し心持からすると、本当は我々は今もなお実際憲法記念日にして置きたいのでありますけれども……それでは次に移りまして「勤労感謝の日、十一月二十三日。」。