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2013年4月12日金曜日

句集・俳誌渉猟(6)~『堕天使の羽』~/筑紫磐井

○羽村美和子句集『堕天使の羽』(昭和25年3月10日文学の森刊)

羽村美和子は、俳句を始めて以来、「像」「橋」と入会した俳句会がつぎつぎと解散し、有為転変を繰り返しているようだ。現在でも「WA」「豈」「連衆」と決して、表現の技の習得に役立つような雑誌に所属しているとも思われないから、その意味でも恵まれているとも思われない。にもかかわらず、羽村特有のスタイルは今回の句集でもはっきり現れているようだ。

『堕天使の羽』を読む限り、それは、口語俳句とイメージを特徴とする特有の詠法として現れている。

若葉風背中のあたりがちょっと反骨 
シャム猫とかつては姉妹青い薔薇 
秋の風男がすっと壁抜ける 
血判状しまってしずかに白椿 
知性理性水で戻してカッパ忌 
飛び梅のはるかに飛んで核家族 
魔方陣真ん中に置く蟇 
花野道途方に暮れた鬼に会い 
夢違えたんぽぽの黄に攻められて 
抽選で軍艦当たる宵の春 
落葉道小鬼一匹ついて来る

これだけ読めば、句集のどの作品を読んでも、見当がつかないということにはならない。一つの方向に向って、作品がベクトルをそろえているからだ。敢えて、入門以来の所属雑誌の数々を冒頭に掲げたのも、一つの個性が生まれるのを妨げる条件がいろいろあるにもかかわらず、自分の個性を作り上げている不思議さがあるからである。

私は羽村が何らかの影響を受けた「像」の高井泉、「橋」の加藤佳彦という人たちを全く知らないが、決して羽村に致命的影響を与えたとも思われない。攝津幸彦が、およそ結社と無関係に「俳句とはひねること」と理解して、後は周辺の作家の作品を貪欲に消化して行くことにより、独自の世界を創り出したように、本来俳人には貪欲な消化器さえあればいいと思っているからである。

伝統俳句は有季のもとに先人の選んだ季題の趣味を繰り返すように、我ら前衛俳人は自己模倣を繰り返す。類想の海の中でこの類想の原理を抜け出すことは出来ない、しかし我々の救いは類想を突き抜け、唯一至上の類想句を見出すことだ。この作業の向こうにあるものを名句と言うが、我々は次のような句としてそれを認めている。

滝の上に水現れて落ちにけり  後藤夜半 
帚木に影といふものありにけり 高濱虚子 
幾千代も散るは美し明日は三越 攝津幸彦

大井恒行の解説は、裏返して読めばやはり羽村が前衛派であることを示しており、自己模倣を否定してはいない。少なくとも伝統派の季題趣味でないことをはっきり示している。しかし弱点はまた強みである。例えば、その典型が、

一面菜の花深入りをしてファシズム

である。嫌悪すべきファシズムがこうした我々の日常から生まれることを納得させる。「菜の花」には文部省唱歌の「朧月夜」や山村暮鳥の「風景 純銀もざいく(いちめんのなのはな)」などがあろうが、しかしこれは隠喩などではない、正面切った直叙の思想である。不自由な俳句形式という定型で、自己模倣を繰り返しているうちに発見する独自の思想である。キリスト教がなかりせば、ナチズムなど生まれなかったのではないか、これはタブーとなっている思想であるが、我々はタブーをこういう方法でしか打ち破れないのだ。

例えば対照的な例として、永瀬十悟の一昨年角川俳句賞を受賞した震災俳句「ふくしま」をあげることが出来る。永瀬はこの2月に『橋朧――ふくしま記』(平成二十五年三月十一日コールサック社)を出して、これは「ふくしま」を含むものの、全体として違った構成の句集として仕上げている。これはこれで評価したいと思うが、震災俳句「ふくしま」に関しては、

凍返る救援のヘリ加速せよ 
無事ですと電話つながる夜の椿 
しやぼん玉見えぬ恐怖を子に残すな 
牛虻よ牛の涙を知つてゐるか
これらの句を角川賞の選者の小澤實や池田澄子が批判している。評言の「既視感がある。新聞報道で聞いたことをもう一度読まされている。・・・その土地にいて嘆いているのではなくて、外から詠んでいるような気もしてしまう」は私も同感である。ニュースキャスターや新聞の論説という世論の声を一歩も出ていないように思われる。これに対して、「一面菜の花」は危険な思想である、声高に論じてはいけない。しかし我々はここから学ぶべき多くのものを持っている。戦争を二度と起こさないための知恵はこうした地獄の思想から生まれるのである。

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