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2013年3月22日金曜日

赤尾兜子の句【テーマ:場末、ならびに海辺】/仲寒蝉

こおろぎに黒い汁ためるばかりの細民        『虚像』

ど田舎には場末はない。基本的に都会、大都会はもちろんであるが地方でも少なくとも繁華街のあるような「田舎の銀座」的な所にしか場末は存在しない。そこにはスラム街もある。大金持ちは基本的には住んでいないのである。

場末というのは近代以降の産物である。近世の京、大阪、江戸にもその萌芽はあったろうが人口の流入の規模、その匿名性などにおいてやはり産業革命以後の生活の変革が基礎になければ場末は生まれない。都会の辺境、不衛生、貧富の差、水や空気の汚染、・・・それらが場末の条件である。

細民、何と突き放した言い方だろう。貧民とか貧乏人と言わないだけやさしいのだろうか。貧富の差は社会というものがある限りはある。文化人類学のフィールド・ワークは先史的な生活形態を保っている社会にもすでに貧富の差のあることを教えてくれるし20世紀の共産主義革命の壮大な実験が「結局みな平等などという理想社会はこの世に存在できない」という真実を突き付けた。だから場末に大金持ちはいないが小金持ちはいるし貧民も超貧民もいるのだ。

その細民の生活を表現するのに「こおろぎに黒い汁ためるばかり」と言う。分かりにくいけれども印象的だ。こおろぎと言えば誓子の「蟋蟀が深き地中を覗き込む」を思い浮かべるのは兜子も同じだったろう。ただこの句の蟋蟀は誓子の句のそれとは全く違う。誓子の蟋蟀は戦争との関連を抜きにしても己れの心の中を覗き込む人間の心象が反映されている。生物というより精神的な、謂わば形而上の存在である。それに対して兜子の蟋蟀もまた余りに人間的であるがどちらかと言うと形而下の存在である。この蟋蟀は生きていくために黒い汁を飲むのだ。黒い汁の正体は分らない。汚物から出る液体だろうか。いずれにせよ細民の生活の中から作りだされたものである。流石に黒い汁では細民の腹は満たされない。下手をすれば病気になってしまう。だから「こおろぎに」つまり蟋蟀のために、と言う。別に蟋蟀のためにしてやっている訳ではないが自分のためには何もできず、生活から出たものを垂れ流してこおろぎに供しているだけ、との自嘲(この細民が作者自身として)なのである。

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