2014年9月12日金曜日

(「我が時代――戦後俳句の私的風景」の附録)  能村登四郎の戦略――無名の時代 (4)  /  筑紫磐井 

それでは終戦直後の登四郎の俳句を眺めてみよう。特に気になった句を選んでみる。

【21年】

曇日のいささか晴れて枇杷の花(昭和21年1・2月)3月は休刊
咲く梅にみちびく畦の焼かれあり(昭和21年4月)
いちはつの二番花なり雨の後(昭和21年6月)戦後初めての2句
蟇ないてけさくる筈のひとが来ず
懐石や春の海ゆくさよりなど(昭和21年7月)
くすぶりてゐる籾殻に月のこす(昭和21年11月)
【22年】

日がさせばためらひてゐし雪やみぬ(昭和22年3月)
かまはずに置かれし客の梅に立つ
牡丹活けよしありげなる調度など(昭和22年7月)
緑蔭に居りし人なり漕ぎいづる(昭和22年8月)
とほき帆やさらにとほきは秋の雲(昭和22年11月)
出水なか灯りて常のひとりむし(昭和22年12月)戦後初めての3句
くちびるを出て朝寒のこゑとなる
さがしものあるや雨月のみだれ箱筥

戦前の作品と殆ど変化してないことが分るであろう。

   *

しかし、画期的な変化は、競争からくる。

上から見ても分かるように、21年から復帰を果たしたものの、5月、8月から10月、12月、22年の2月は作品発表がないが、これは落選していたものらしい。

没になった時、当時編集をしていた木津柳芽を訪れるが、柳芽は句稿をしばらく見て、「こりゃあひどい、並々ならぬまずさだ。」と言い放った。その時の絶望感は大きく、帰路涸れ川を前にしばらく座り込み、俳句を殆ど止めようと言うまでの決意をした、と後に語っているが、事実かどうかはよく分からない。「一句十年」と同じくフィクションかもしれない。

このようなさなか、昭和22年1月馬酔木復刊記念大会が高雄で開催された。戦後初めての大規模な大会で、全国から100人近くが集まった。この大会の句会で、藤田湘子は秋桜子の特選となったが、登四郎は全くふるわず、帰り道には俳句をやめようと決心したという。この時、俳句をやめかけていた能村登四郎を励ましたのが宮城二郎だという。この青年俳人は、石田波郷の「馬酔木」復帰への橋渡しをしながら、波郷の「馬酔木」復帰後、日を経ずして不帰の人となった伝説的人物であった。能村登四郎が参加した高雄の大会で帰る途次、二郎と出会い、俳句をやめようと思っている話をすると「いや貴方はもう一歩というところにいるんだ。秋桜子先生もそれを認めていらっしゃる。今やめては今までの努力が水の泡になる。一度先生と会った方いい。」とすすめられる。実はこれもフィクションかもしれない。ただこう言うフィクションでこそ語られる登四郎の心情はあるのであろう。

この時後述するように登四郎は、あまりの成績の悪さに前半の句会で帰ってきてしまったのだが、その時句会場では秋桜子がこんな訓話をしていたのを知っていたのだろうか。

「本日集った諸君は新樹集の二句一句級の人々であるが、この二句級の人々の使命といふものはなかなか重大で、二句のところにすばらしい着想の句があつたり、技巧の新機軸が示されてゐたりすると、三句級以上の人はそれによつてつよい刺激をうけ、発奮することになるから、集全体の価値が高くなる。しかし、この新発想とか新着想とかいふものは、必ず堅実な研究の上に立つべきもので、いい加減の思ひつきなどであつてはならない。また一方からいへば二句級の人の句は堅実な風をもつてゐて、集全体をしつかりしたものにしなければならない。要するに、ここには大きな使命があつて、責任は重いのであるが、とかく二句級まで進出すると、一安心といふ気持ちになつて、句が弛緩するおそれがあり、また二句を維持してゐたいといふ考から、当時流行の技巧を真似て、安易な作を提出することになり易い。ここらは大に戒心を要するのである。」

正に、二句一句級で右往左往している登四郎の迎えている危機であったのである。

  *

それはともかく、登四郎はそれまで句会に出ても、秋桜子に接して口をきいたことがなかったという。実は戦争中に自宅も病院も焼失して八王子に疎開していた八王子の秋桜子の家に、21年夏休みの終り頃、林翔と訪問したが留守で会うことが出来なかった。やがて、二郎の勧めもあり勇を奮って、秋桜子の勤める宮内省病院を訪れると、秋桜子は温かく迎え、帰りがけに「馬酔木は若い人を育てるために新人会というものを興して篠田君に指導してもらっている。そこに入る人は皆僕が指名した人を入れるようにしている。君もそこへ入って勉強したまえ。」と激励したのだという。
実はすでに馬酔木の新人発掘は動き始めていたのだ。登四郎が沈滞に陥っていた時期に、登四郎を置いてきぼりにして、21年の後半から馬酔木に漸く新人が台頭し始める。

その一つに、戦後、秋桜子傘下の句会として発足した三菱俳句会があり、この中に秋野弘、五十嵐三更その他の若手がいた。当時の秋桜子の最も期待している若手であった。

これと別に、先に述べたように高雄で馬酔木の復刊記念俳句大会で特選を得た藤田湘子も馬酔木をになう中心人物として注目され始めた。

やがて、これらの動きが(おそらく秋桜子の意図を踏まえて)合流して、22年8月23日に、後楽園涵徳亭に藤田湘子、秋野弘等9名が集会し、篠田悌次郎指導する新人会として始まる。しかしこの新人会にはまだ登四郎は招かれていない。

新人会に関しては、やや遅れてであるが上記のような秋桜子の薦めもあり遅れて参加する。しかし、林翔によれば、秋野弘から能村登四郎、林翔の両氏の参加を認めるという通知が届いたものの、林翔が登四郎にそれを伝えてもうれしそうな顔をしなかったという。秋野らとは微妙な関係があったことは後ほど述べたい。

このように、「一句十年」という戦前からの不遇の伝説よりももっと重要なのは、後からやってきた新人たち(湘子たち)に追い抜かれた鬱屈した感じの方であったと思うのである。

【注】当時秋桜子の眼中にあったのは、水島龍鳳子、藤田湘子、沢田緑生、矢吹蕗の薹、冨田蒼棲と言った人達であったが、もっと佳い句が出来る筈であると評されていた(21年12月)「片々帖」)。





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