2014年3月7日金曜日

【朝日俳壇鑑賞】 時壇 ~登頂回望 その四・その五~  / 網野月を

時壇 ~登頂回望 その四~
朝日俳壇(2014年2月24日朝日新聞)から

◆対岸の人と歩くや鳥雲に (熊本市)寺崎久美子

大串章選である。中七の動詞に切れ字「や」を配している。昨今は当たり前のことであろうが、かつては季語だけ限って「や」を付すのが常套であった時代もあったことを考えるとこの「歩く」は英語で言うところの現在分詞のような扱いになるかも知れない。その「や」に対して座五の「に」も切れ字の効果があろう。「に」の切れ字に関しては連歌師救済(1282~1378)の口伝に拠ればである。この口伝の「に」は疑問詞の「いかに」の「に」であり、掲句の「に」とは明らかに異なるが、筆者は掲句の座五の終りの「に」に若干の切れを感じている。

河川なのか細い入り江か分からないが、向う岸にいる誰かとこちら側の作者が歩調を同じくして歩いている景である。同じ方向に歩いてゆく二人に共通の何かを作者は感じ取っている。初春の暖かな陽射しが思い浮かぶではないか。句に表現しきれない景を読み手に想起させる力の有無が俳句の良しあしであるとしたならば、将に掲句は十七音以上に表現する何かを有している。余談であるが、「鳥雲に」という季語はオールマイティーである。どんな措辞にも巧みに付いて俳句にしてしまう力がありそうだ。

◆土を見るやうに見られてゐる落葉 (藤岡市)飯塚柚花

金子兜太選である。落葉が落ちる季節から、落ちた後の冬の終わりから春の初めにかけて土へ帰って行く第一歩を踏み出した様子であろう。初冬の風に舞う落葉から、時を経て幾度の雨にさらされてべったりと土に貼り付いている様は、その地方に拠っても時差がありそうだが、大概二月三月の景である。腐化しつつ土へ帰る落葉であるが、地面を覆いその起伏形状に合致して敷きつめている落葉は、タイトな服を着せられているようだ。土と同質ということと共に、その形状を同じくするというところに「やうに」の直喩表現の叙法が効果大である。

時壇 ~登頂回望 その五~
朝日俳壇(2014年3月3日朝日新聞)から

◆海苔あぶる見えざる熱を均すごと (羽村市)寺尾善三

長谷川櫂選である。海苔を焼く極意のような句意である。指先に熱を感じ取りつつ、均一に隅まで焼いて行く。焼き残しが多少あっても焼海苔の香ばしい香を損なうことは無いのだが、手巻きにした場合などはガブリとやった時の歯切れが悪い。海苔が噛み切れないのである。バリッと噛み切れてくれるところに焼海苔の醍醐味があると云うものだ。

掲句には、その他の状況説明は無い。キッチンなのか、帰省先の台所なのか、海浜の様子か、はたまた寿司屋の景かは説明していない。焼き手は誰なのであろう?これもまた判らない。作者自身が焼き手なのか、老母か、漁師か、寿司屋の親方かも説明してくれない。けれども返って焼き方のみに集中した表現が、海苔をあぶる手許に読者の意識を集める効果がある。焼いている瞬間と焼いている事柄のみに集中してその前後や周囲を叙さない掲句の作り込みが、海苔の焼き上げられてゆく経過の中で指先で感じ取る熱の感触を表現して成功している。

同作者の句に

◆氷上に舞ふ少年や魚は氷に

がある。大串章選である。湖上の氷に丸く穴を穿ち、公魚釣りをする。釣れた瞬間の釣り手の少年の景である。氷上であることも忘れて釣れた喜びに踊り出している。当然、公魚も釣り上げられたばかりは、生きの良いものは飛び跳ねるが氷に触れると同時に元気を無くしてのびてしまう。諦念かも知れない。魚の方がピチピチと跳ねまわるのではなく、釣り上げた少年が跳ねまわるところに俳諧味が横溢している。





【執筆者紹介】

  • 網野月を(あみの・つきを)
1960年与野市生まれ。

1983年学習院俳句会入会・同年「水明」入会・1997年「水明」同人・1998年現代俳句協会会員(現在研修部会委員)。

成瀬正俊、京極高忠、山本紫黄各氏に師事。

2009年季音賞(所属結社「水明」の賞)受賞。

現在「水明」「面」「鳥羽谷」所属。「Haiquology」代表。




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