2014年1月10日金曜日

「正木ゆう子と私――戦後俳句の私的風景」① / 筑紫磐井

①はじめに

<戦後俳句を読む>と題して中堅の俳人たちを誘って書き始めてみたのだが、私自身に関して言うと、最初意気込んで書き始めた楠本憲吉論から、戦後の俳句文体に関心が移り(憲吉の文体は結構ユニークなものだから)、テーマを変更してその後に至った。特に、社会性俳句の時代の文体にさらに関心を移し始めた。社会性俳句というのはまことに不幸な俳句であり、戦後の殆どの作家がここを通過しているにもかかわらず、まともに扱って貰っていない俳句なのである。この戦後の社会性にこだわっている間に、いつの間にか金子兜太批判に進み始めてしまった。場は雑誌の連載の方に移り、BLOGで連載する内容とはずいぶん異なり始めてしまった。そこで3回目の方向転換を考えてみることにしたのである。

特に昨年私の入院がきっかけで、<戦後俳句を読む>の基軸が少しずれ始めてきている。また媒介も、それまで詩人・歌人・俳人が協力する3詩型交流企画・詩歌梁山泊(詩人の森川雅美代表)の運営する「詩客」に連載していたのだが、25年1月からは「詩客」から独立し、北川美美編集長の運営する「BLOG俳句空間」に移すことになり常連執筆者の顔ぶれも少し変わり始めたからである。テーマを変えるにはちょうどいい潮時かも知れない。

    *    *

私は幸にも俳句時評を書く機会に恵まれ、その時、戦後派世代と戦後生まれ世代を比較して世代論を書くことが多かった。しかし考えてみると、それ以外の作家論としては自分に最も身近な作家たちに意外に触れていないことに気付いた。虚子や龍太や兜太以上に自分たちの世代を書くという事はなかったようなのである。しかし、自分たちが書かないで誰が自分たちのことを書いてくれるというのだろう。戦後派の知恵から、次はそろそろ自分たちの知恵を紡ぎ出してみることが必要になっているのではないだろうか。こんなことを考えて新しい連載を始めようと思う。

私の身近と言えば、まず、「沖」に入って知り合った作家たちと言うことになるであろう。そんな意味もあって、<戦後俳句の私的風景>と題して、始めの方は「正木ゆう子と私」という思わせぶりな題にしてみた。しかし正木ゆう子のことだけではなく、私が俳句を始めたばかりの頃に私が接触した同世代の作家たち、―――同世代とは言えないまでも近い世代で共感を持った作家たちを、回顧してみたいと思った。吉田汀史、福永耕二、坂巻純子という、薄薄と記憶に残っている人たちも登場させてみたい。その後は「攝津幸彦と私」と続けてみたいと思うのであるが先のことはよく分からない。

正木ゆう子が私にとって象徴的なのは、正木ゆう子がしばしばエッセイで書いているように、生まれて初めて句会なるものに出たとき、たまたま二人初めて並んで坐ったということがあるからだ。以後二人ともそれ程「沖」では期待されず、新人賞も取らず、同期何番目かのお情けで同人にして貰ったのだがそんな縁で10年以上仲良く二人隣り合って作品が掲載されることが続いた。「沖」の同人は、同人昇格順、入会順に並ぶからだ。その後は全く違う道をたどったことになるのだが、十数年近く、隣を見ると必ず相手がいるというのも不思議な縁であろうと思う。

だから、同世代の目と同時に、40年経った今だから言えるような知恵も少し書いてみたいと思う。現在の若い世代、―――といっても当時の私たちから見ると相当年上でおじさん、おばさんたちに相当する世代であるが、これらの人々の参考になるかも知れないと思うからである。じっさいその瞬間は夢中になってやっていたことも、40年経つと歴史になっているのである。

  *      *

一方、正木ゆう子と全然違う道を歩き始めた頃から、親しくなるのは攝津幸彦である。ただその時代はまことに短く、49歳で亡くなった攝津の最後の10年にも満たない期間である。私が正木ゆう子のことを語れると自負しているその最初期については、攝津幸彦については伊丹啓子や坪内稔典、澤好摩、大井恒行より語れることは何もない。しかし、その最晩年を「豈」という雑誌の発行人を攝津が、編集人を私がやっているという関係から濃密な記憶が残っている。

そして「正木ゆう子と私」、「攝津幸彦と私」と並べて書いたとき、<戦後俳句の私的風景>が私から見た同世代論の基幹をなしていることに気付くのである。もちろん、小澤實や長谷川櫂や夏石番矢などが書けば別な私的風景となるであろうが、それはそれぞれが考えるべきことであろう。


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