2013年7月5日金曜日

ゆく水のひかり――永田耕衣の世界  / 池田瑠那

前回、「いづかたも水行く途中春の暮」について書くうち、耕衣俳句における「水」の重要性に気付かされた。勝手ながら今後は「水」をキーワードに耕衣俳句を読んで行くこととしたい。


蛭の池濁るは池の娯楽かな

大方の人間に忌避される吸血動物、蛭。掲句の主人公は、その蛭が蔓延る池である。池の周辺には恐らく、鬱々と夏樹が生い茂り、池の面に暗い翳を落しているだろう。水は、澄明ではなく――絶えず濁っている。

池の濁りは、肉食動物である蛭が、貝などを捕食する際の殺生による濁りでもあり、あるいは交接による(蛭は雌雄同体ながら交尾を行う)濁りでもあるだろう。あの蛭の姿を思い浮かべれば、どうしても膚粟立つような不快感を覚えるが――二読、三読するうち、この蛭の池は我々が生きる現世の縮図ではないか、とも思えて来る。

試みに現世の外の「池」と引き比べてみれば、そのことが実感されよう。芥川龍之介「蜘蛛の糸」には、御釈迦様います極楽の蓮池と、カンダタが浮きつ沈みつしている地獄の底の血の池が登場する。極楽の池は、「水晶のような水」が湛えられ、「咲いている蓮の花は、みんな玉のようにまっ白」であり、蓮の葉も「翡翠のような色をした」ものとして形容される。一方地獄の血の池はカンダタの視点から「何しろどちらを見ても、まっ暗」な状態として描かれる。(こうした描写は、芥川自身の個性の発露というより、むしろ極楽の池、地獄の池と聞いて多くの人が思い浮かべるイメージの典型中の典型を、見て来たように描いたものといえるだろう。)清澄この上ないが、まるで「水晶」や「玉」や「翡翠」で造られたかのように、無機質で生気のない極楽の池。そして、闇の中にどろりと淀む血の池。それらに比して――掲句の「蛭の池」は、まさしく生の四苦八苦に満ちた現世の池である。

耕衣自身は掲句について「この一句が出来たときは、私はくだらぬ名句が出来たと、即刻に狂喜した。大仰にいえば、この一句が出来ただけで、生涯を俳句で棒に振っただけの手応えがあった。」と書き、また「『濁』は即万事『諾』であるだろう。研ぎすまされただけの世界などを詩の高邁ぶりと心得ているようでは、くだらぬ名句は出来っこないだろう。だだっぴろくて、だだっぷかい身心の世界、というよりも『即身』の世界が『濁』の世界ではあるまいか」とも書いている。(昭和51年刊『陸沈條條』より)

蛭の池、それは「即身」、ままならぬ肉体をもってただ一度限り感受する世界であり、それゆえの濁りに満ち溢れた世界である。濁りは生の証。傍目に見苦しかろうと、浅ましかろうと、生れたからには生き抜かねばならない定めである我々生き物の、足掻きの一掻き一掻きに他ならない。
池は、だがその濁りを諾い、そればかりか娯楽としている。この世ならぬ超越者からすれば、現世それ自体が、たまさかの娯楽として造った池であるのかも知れない。

一句を作ることも、無論、必死の悪足掻きである。水底の泥を舞い上げ、藻を引き千切り、即身のままに「くだらぬ名句」を求め、せいぜい池を、(あるいは池そのものであり池の創造主である何者かを)濁らせ、賑やかしてやろうではないか。そんな耕衣の声が聞こえて来そうな句。(昭和45年刊『闌位』より)

《参考文献》ちくま文庫『芥川龍之介全集第2巻』

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