2013年3月1日金曜日

中村苑子の句【テーマ:水妖詞館ーあの世とこの世の近代女性精神詩】2./吉村毬子

第1回でテーマを決めていなかった為、第三句集『中村苑子句集』集中の「四季物語」(昭和54年)から一句を揚げる
俳句とは業余のすさび木の葉髪
高柳重信の富士霊園の墓に刻まれている次句がある。
   
わが尽忠は俳句かな   高柳重信

文字通り、俳句に忠義を尽くすということである。

俳句の渦の中で半生を共に生きた二人の俳句への思いの違いは何であろうか。

「業余」(ぎょうよ)は、本業を果たした余力でする仕事。「すさび」は、気の向くままにすること、気慰みの技。

「木の葉髪」で表現されているように、老年に差し掛かった66歳刊行の句集の作品であるが、その4年前に『水妖詞館』、3年前に『花狩』という強烈な個性の句集を出版してから、間もない句にしては、落ち着き過ぎている。

重信が「わが尽忠」と断言した俳句を、私には、「業余のすさび」だと言い放つ。

高柳重信の要請に寄り、苑子が在籍8年の「春燈」を辞して、重信と『俳句評論』を創刊したのが昭和33年(45歳)であるから、20年余りの歳月を、自宅を発行所にして、共に支えあい、才能溢れる個性豊かな同人達と俳誌を続けていくことは、想像を絶する。

苑子は、大正2年に生まれ、一女性として家庭を持ち子も育てあげた。前夫を戦争で亡くし、自身も戦前、戦中、戦後を生き抜いた。関東大震災も経験している。

10年間の苑子の指導の間に間に聴いたそれらの話を繋ぎ合せれば、死にたくとも死には導かれなかった。寄って貫かれた「生」が本業であり、俳句は「業余」であると書き留めた意味は深い。苑子はその「すさび」に命を懸けて挑んだのである。

傘寿の祝いの会で
「苑子先生は、本当にお元気で長生きですね。」
と言った私に
「私は業(ごう)が深いのよ。」
と答えた顔が忘れられない。

さて、『水妖詞館』一句鑑賞に戻る。

2.  恐れつつ葉裏にこもり透とほる

中村苑子の第一句集『水妖詞館』は、昭和50年(62歳)に刊行されている。

前号の年譜に記したように、戦死した新聞記者であった夫の遺品の句帳をきっかけに俳句を書き始めたのが32歳である。

それまでは、小説家を目指し、家出をしたこともあり、母の反対を押し切って日本女子大学に入学するが、結核に侵され中退している。ある会で、林芙美子から「あなたは、躰が弱いから、俳句のような短いものが合っているわよ。」と言われたことも、夫の句帳と共に、俳句を選ぶ要因の一つだったかも知れないと、話していた。

昭和20年(33歳)には、藤沢に疎開中、久米正雄・川端康成・高見順・中山義秀の四氏が設立、運営する貸本屋「鎌倉文庫」の事務を手伝い、本格的に俳句を始める以前に、文学関係の方々と交流していた。その頃のことを話すときは、本当に楽しそうであった。その頃のことを随筆集に残している。苑子は、随筆に長けていると思う。俳句とは違う、飾りのない素直な文章で読みやすい。
昭和22年(35歳)に「鶴」の石橋秀野選に3回入選。(私は、石橋秀野を読みなさい。と言われ続けていたが、昨年やっと古本市で見つけ、墓参で報告した次第・・・)

翌年、日野草城「青玄」に三樹美子の名で三句入選。
枯菊を刈らむとするに香を放つ
ふるさとに来て旅愁はも菜の花黄
冬虹見しやさしき心にて訪へり
そして、昭和26年(37歳)久保田万太郎「春燈」に入会。初入選は
人の気配する雛の間を覗きけり
以後は、句会歩きも投句も止めて「春燈」一筋。

しかしながら、先にも記したように、重信の要請で『俳句評論』を設立する。

そして、満を持して17年後、62歳にして処女句集『水妖詞館』を発刊した。この句集は、1頁に二句を納め、全句で139句という、30年間に亘る俳句苦業に於いて、厳選を重ねたと思われる。
高屋窓秋の序文を抜粋する。
「(前略)通読していて心のやすまるひまもないような気がして、すこしぐらい息ぬきになる作品が含まれていてもよいではないかと、正直いって、ぼくはそう思った。しかしながら、句集というものは、一句一句を、ゆっくり心深く読むべきものであろう。」
第2句目は、前号で鑑賞した第1句目と並んで、見開きの左側に置かれている。

喪をかかげ今生み落とす竜のおとし子
怖れつつ葉裏にこもり透きとほる

一句目の「今、私は、死を纏いながら、竜のような神秘的な詩群を産み落とします。」という沈降的な強さの女性性に対して、嫋やかさを唱えながらのナルシズムが窺える。

何に怖れているのか・・・怖れながらも決して逃げずに、葉の裏にこもり、そして、自身は透き通ると言う。透き通って見えなくなるようになるのだとも解釈できるが、一句一章の流れに乗り、詩的耽美さを感じてしまうように描かれている。

永い句業の果ての、処女句集の一頁目に置かれたこの二句の効果は、成功しているのであろう。
「生み落としたけれども、儚いものなのだ・・・」と、強く弱く読み手を誘いながら、二頁目を繰らせるのである。

追記すれば、苑子は、此の句集を出版する頃、病に襲われていたと本人から聞いたことがある。最初で最後の句集だと思い、全身全霊を入れたとのこと。「喪をかかげ」には、その思いもあるのかも知れない。


【執筆者紹介】

  • 吉村毬子(よしむら・まりこ)

1962年生まれ。神奈川県出身。
1990年、中村苑子に師事。(2001年没まで)
1999年、「未定」同人
2004年、「LOTUS」創刊同人
2009年、「未定」辞退
現代俳句協会会員

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